【報告】昭和文学会2011春季大会 <土地・地域>のイメージ生成の再検討
- 日時 2011年6月18日(土) 午後1時30分より
- 会場 武蔵野大学 一号館 1102教室
*昭和文学会会員以外の方でも、無料・申込不要にて参加できます。 - 研究発表(司会 浅野麗・ 山根龍一)『浅草紅団』の断層 田口 律男織田作之助の〈大阪〉――土地を記述するということ 尾崎 名津子軽井沢と文学――理想郷を希求する言説空間―― 小松 史生子
- 懇親会
※ 研究集会終了後、懇親会を予定しておりますので、皆様ふるってご参加下さい。
報告要旨
『浅草紅団』の断層
田口 律男
田口 律男『浅草紅団』には関東大震災とその復興の痕跡がいたるところに刻み込まれている。とくに「大正大地震」の副題をもつ弓子、姉の千代子、赤木をめぐるシークェンスには顕著である。三者はねじれた愛憎関係で結ばれており、それがこのテクストを謎めいたものにしているが、その起源に大地震による破壊とダメージがあることは明らかである。また、復興する浅草にたいする眼差しにも、モダニズムの一語では片付けられないものが含まれている。故前田愛は、「破壊の衝動を内に秘めた「地震の娘」でありつづける」弓子に注目しつつも、『浅草紅団』を、「劇場としての浅草、一九三〇年の劇場都市TOKIOを描いたものがたり」と集約した。ここに不足しているのは、震災/復興がもたらした「断層」、その構造と力に対する目配りではないだろうか。3・11以後の読者のひとりとして、『浅草紅団』を震災後のテクストとして読み返してみたいと思う。なおこの考察は、論者の「都市テクスト論」の一部を構成するものである。 (龍谷大学経済学部)
織田作之助の〈大阪〉――土地を記述するということ
尾崎 奈津子
織田作之助は所謂文壇へ登場する契機となった『夫婦善哉』を昭和十五年四月に発表して以来、約七年間の著述期間で一貫して「大阪」を描いたといえる。その土地の表象は〈東京=中央〉の対立項としてある、と作家論的な視点から指摘されてきた。だがそれは主に、織田の評論や随筆に依拠したもので、小説に仮構される〈大阪〉はまた位相が異なり、そこにはまだ検討の余地がある。本発表では『世相』(「人間」昭和二十一年四月)を中心に考察する。本作にも大阪の地名・風物が連記されており、そのことが先述した評価につながってもいよう。しかし戦中/戦後の時間が輻輳的に描かれる作品の構造と合わせてみると、〈大阪〉を〈書くこと〉はテクスト構成上の方法論的戦略だったと考えられるのではないだろうか。また『世相』における土地の表象は、それ以前の作品のものと異質だとも指摘できる。これらの視点から、記述される土地・〈大阪〉に検討を加えたい。 (慶応大学通信教育部)
軽井沢と文学――理想郷を希求する言説空間――
小松 史生子
軽井沢が避暑地として〈発見〉されたのは明治十九年の頃、引き続いて明治二十六年に碓氷線が全通し東京からの便利な避暑地として拓かれて以来、大正、昭和を通じてこの地は文学者を惹きつけてやまない高原の理想郷イメージを強固に形成していった。箱根や伊香保、日光、富士湖畔等と異なり、軽井沢は最初は外国人宣教師による見立てによって風景が発見され、後にそれを文学者が豊かな言語イメージによって理想郷としての〈高原〉にまで高め、追随して実業家がその幻の高原風景を地道に現実化していったと言える。そこからは、やがて旧軽井沢と信濃追分、北軽井沢との対比に見られるような知識人階層とブルジョア階層との確執・棲み分けも生まれ、地元民の感情も加わり、一口に軽井沢文化圏とくくれない複雑な言説様態をかいまみることができる。 発表では、以上の経緯を簡便に紹介しながら、こうした軽井沢に形成された避暑地文化の言説様態を大正~昭和期の文学が如何に取り扱ってきたのかを中心に考えていきたい。
大会の主旨
会務委員会
わたしたちが現在、ある特定の〈土地・地域〉に抱くイメージは、さまざまな力関係のなかにその〈土地・地域〉の特異性が投げ込まれてできた記憶そのものである。しかしその特異性もまた、〈土地・地域〉の歴史、神話、伝承の言葉とないまぜになった、虚実の曖昧な境界線上に置かれた記憶を前提とする。ある特定の〈土地・地域〉をめぐる〈記憶〉を土壌とした文学の言葉を検討することは、その〈土地・地域〉を、ある〈共通の場〉として創造・編制する力と関わる言葉の運動性を明かすことである。〈昭和文学〉という観点は、〈中央〉が統御する政治の力のみならず、より普遍的であるがゆえに根本的な流動性を帯びた資本の力と交差する、〈土地・地域〉のイメージ生成の再検討を要請する。さまざまな角度から行われる模倣、反復という運動のなかで、政治的な力と同じく、〈共通の場〉の輪郭を拡張していくものとして文学の言葉をとらえること。その上で、資本の力により〈共通の場〉に蓄積される虚構性との葛藤を刻むものとしても、文学の言葉をとらえ再検討すること。それが本大会の主旨である。