「高等学校国語・新学習指導要領」に関する見解

 平成30年に告示された新学習指導要領において、国語科必履修科目は「現代の国語」と「言語文化」に、選択科目は「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の4科目に分かれているが、これらの科目を「論理的な文章」「実用的な文章」を扱うか、「文学的な文章」を扱うかによって区分する基準に対し、われわれは深い憂慮を覚えるものである。「論理」「実用」と「文学」とを対立概念として捉えることは元来不可能である。また、個々の教材を「文学的」であるか否かによって区分することもまた不可能である。
 日本語の歴史とともに歩んできた「文学」は、人間の存在意義や尊厳と関わる人文科学、社会科学全般と密接に関わっている。「文学」を狭義の言語芸術に限定し、囲い込んでしまうことによって、言葉によって新たな世界観を切り開いていく「人文知」が、今後の中・高等教育において軽視され、衰退しかねない危惧がある。
 上記の観点から、新学習指導要領の実施にあたっては、単位の認定、教科書検定等に際し、「人文知」の軽視されることのない、柔軟な運用を行うことを強く求めるものである。
                                                                 
2019年(令和元年)8月10日
                                                                 
古代文学会/西行学会/上代文学会/昭和文学会
全国大学国語国文学会/中古文学会/中世文学会
日本歌謡学会/日本近世文学会/日本近代文学会
日本社会文学会/日本文学協会/萬葉学会
美夫君志会/和歌文学会/和漢比較文学会
(五十音順)

第81集特集 現代の演劇と文学

 一九六〇年代のアングラ演劇以降、とりわけ近年においては、戯曲を文学として評価し文学研究の対象とするのみならず、演劇と文学の関係自体を問いなおす新たな枠組みの構築が求められている。一つには、「贋作 桜の森の満開の下」(野田秀樹)や「唐版風の又三郎」(唐十郎)のように、近代の文学作品、それも戯曲ではなく小説が劇作家の手によって大きく変形され、かつ繰り返し上演されているという現象がある。他方で、「細雪」「黒蜥蜴」のように独特の形で定番化している作品もある。翻案(アダプテーション)とも一種のカノン化とも言い得るこうした現象には、どのようなアプローチが有効だろうか。
 また、二〇〇〇年代以降、本谷有希子・岡田利規・山下澄人ら演劇人による小説が次々に文学賞の受賞作・候補作となり話題を呼んだ。平田オリザは『銀河鉄道の夜』を上演する高校演劇部を題材に初の小説を発表し、高橋源一郎『日本文学盛衰史』を原作とする演劇を制作した。演劇人の文化的基盤にはアングラ演劇から八〇年代そして九〇年代に続く都市型小劇場があり、そこで培われた権威や差別を問う表現を再検討することも必要だろう。その意味で、つかこうへいや、近年劇団を復活させた柳美里の存在は重要である。
 演劇界の動向とは別のところで、『水死』で『こころ』を演劇化する人物を登場させた大江健三郎、『劇場』で小劇場の界隈を題材にした又吉直樹のような事例もある。批評の領域では、福嶋亮大や佐々木敦など、演劇的想像力に着眼する動きも見られる。以上のような複層的な現象を踏まえ、本特集では、現代の演劇と文学を多角的な視点で捉えなおしてみたい。
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第80集特集 元号と文学

 2019年5月は、「平成」という「元号」で区切られた時代の終焉として、近代以降では初めての、天皇の死を伴わない改元が行われる予定である。「元号」を日常生活で強く意識する機会は減っているが、退位が話題になって以降、「平成最後の~」といった表現が増えるなど、「元号」による時代区分は一層強調されている印象を受ける。  
 現在、いくつかの文芸誌で「平成文学」の図式を再考する座談会や企画が組まれ、そこでは戦争・テロ・宗教・ネット社会・経済的地図の大変容・グローバル性・越境性など多様なテーマが、ライトノベル、ネット小説、ケータイ小説といった新たなジャンルとも連関して「平成文学」の特徴として議論されている。だが、同時にここには、「元号」によって時代を語ることへの無自覚さが露呈しているとも言えよう。そもそも、文学史、文学研究もまた、「元号」とは決して無関係ではなかった。本誌が『昭和文学研究』と「元号」を冠した雑誌名であるのを見ても分かるように、日本の近代文学は「元号」による時代区分の規定を様々な形で蒙ってきたのではないだろうか。「明治文学」「大正文学」「昭和文学」、そして「平成文学」なる呼称の流通はその証左である。
 また、文学において「元号」を問うことは天皇(制)を問うことにもつながる。これまでの日本の近代文学が「元号」による時代区分をある種無批判的に受け入れて来たとすれば、それはまさしく天皇(制)を何らかの形で文学の制度として受け入れたことになるだろう。
 むろん、こうした背景があったとしても、少なくとも日本近現代文学研究は、このような天皇(制)や国民国家に対する批判的な議論を積み重ねて来なかったわけではない。だからこそ、今ここにある「乖離」について、今一度考察する必要があるのではないか。「譲位」または「生前退位」という手段により、「昭和」よりもはるかに短く「平成」が終わることで、「元号」という見掛け上の力は今後弱まるかもしれない。しかし、「元号」のもつ政治性は、なおも温存されるだろう。こうした状況にあって、「元号」のもつ歴史性と問題を批判的に炙り出すような論考を募りたい。
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お詫びと訂正

会員向けに送付した春季大会案内に記された発表者の氏名に誤りがありました。

 

(誤)朱 紅衛

   

(正)朱 衛紅

 

ここに深くお詫び申し上げ、訂正させていただきます。