【報告】昭和文学会2007年度春季大会

  • 日時 2007年6月10日(日) 午前11時30分より
  • 会場 國學院大學(渋谷キャンパス)百二十周年記念1号館
  • 開会の辞
    國學院大學 傳馬義澄
  • 自由発表(司会 舘健一)
    1. 虚構(フィクション)を詠むこと ―夢野久作『猟奇歌』―
      伊藤里和
    2. 藤枝静男『空気頭』試論 ―コラージュとしての「私」―
      近藤富
  • 特集 折口信夫(1:30~ 司会 疋田雅昭・持田叙子)
    1. 言語情調がもたらした『水中の友』 ―生活の実験―
      須藤宏明
    2. 折口信夫と京極派和歌 ―『言語情調論』の詩学と浄土教的心性―
      林浩平
  • 講演
    • 折口信夫の言語論 ―『言語情調論』の起源とその可能性―
      安藤礼二
    • 折口信夫と近代
      松浦寿輝
  • 閉会の辞
    代表幹事 栗原 敦
  • 総会
  • 展示「折口信夫 ―うたと学問―」
    自筆歌稿集「安乗帖」、自筆自装歌稿集「ひとりして」(「海山のあひだ」の元になる歌稿集)、「この集のすゑに」(「海山のあひだ」自筆原稿)、「沖縄採訪手帖」、「日本文学の発生」自筆原稿、「死者の書」書き入れ本、近代作家の折口宛書簡類など

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発表要旨

午前の部 自由発表

虚構(フィクション)を詠むこと ―夢野久作『猟奇歌』

伊藤里和

夢野久作が近代短歌に学びつつも、いかに独自の表現を開拓したのかを「猟奇歌」から明らかにし、久作文学におけるその位置づけを検討する。
「猟奇歌」は一九二七年から三五年にかけて『猟奇』他二誌に分載された、久作の代表作の一つに数えられる作品である。その発表期間は、久作が作家として活動を行った一九二六年から三六年までのほとんどを覆う。単独で論じられることは少ない作品であるが、久作の創作活動の出発点が短歌である事実を考えるならば、三十一文字の「猟奇歌」には、活動のほぼ全期を通じた独自の世界観の表出を認めることができるのではないか。
本発表では特に「猟奇歌」の虚構性に注目し、私的事実とは無関係な事象を詠うことがいわば自他融合ともいうべき視点を生み出していることを取り上げ、それが久作文学の個性においてどのような意味を持つのかを考察したい。
(日本女子大学大学院生)

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藤枝静男『空気頭』試論 ―コラージュとしての「私」―

近藤富

藤枝静男によれば「空気頭」(「群像」昭和四十二年八月)は「私小説」であり、創作モティーフが「分裂」としての「私」を表現することであるがゆえに、コラージュ的手法を用いたという。先行研究においてコラージュされた作品群は特定されている。本発表においては、シュルレアリスムの手法であるコラージュと「空気頭」の作品世界との、自己同一性の危機という点における繋がりを、コラージュされた作品群と「空気頭」との比較から浮かび上がる差異を通して、改稿過程に触れつつ改めて検討する。その際にコラージュと「私小説」との接点にも言及したい。着目するのは、「空気頭」において「私」が暴力的なものを統御し得ない存在として描かれていることである。藤枝は「空気頭」の手法の「必然性」と「失敗」を口にしている。本発表では、テクストを読むという作業から、コラージュ的「私小説」としての「空気頭」の可能性と限界を提示することを試みる。
(早稲田大学大学院生)

午後の部 特集 折口信夫

言語情調がもたらした『水中の友』 ―生活の実験―

須藤宏明

本発表のキーワードとなるのは「折口・迢空・太宰/大阪・東京・津軽/男・女・貫之流れ・しきたり/言語情調論」である。折口は太宰の死後「水中の友」という口語詩を含む文章を角川文庫『人間失格・桜桃』解説に寄せ、「世の人のすなる評判記」(太字部分、原文は傍点)という傍点表現をしている。女語りの日記体の「斜陽」という点を考慮すると、これは土佐日記を強く意識した表現であると言える。折口はどのような意味で、太宰を「友」と認識したのか。本文では門弟の伊馬春部を介してとあるが、本質は太宰の言語駆使の方法にあったと考えるべきであろう。折口信夫・釈迢空という二つの存在・記号は、同一、分離、融合、離反する方向性を持つ。これは、折口の男と女の問題であり、貫之の「女もしてみむ」という意識に重なるものであり、太宰の言語方法に繋がるものと考えられる。折口にとっても晩年である「水中の友」の根底にある方法意識は、実は折口の青年期の「言語情調論」に早く打ち出されているものであろう。言語情調という観念・理論が「友」を裏打ちしている。
(盛岡大学)

折口信夫と京極派和歌―『言語情調論』の詩学と浄土教的心性―

林浩平

折口信夫が古典和歌では京極派(「玉葉集」「風雅集」)を最も高く評価したのはなぜなのか。京極派は異端視され顧られなかった。風巻景次郎は新古今と京極派を同質の詩を持つと言う。二つの歌風の文体を比較しよう。すると字余りの過剰さ・疎句体の希少性・統語論的要素の強調の点で京極派は隠喩的な新古今とは正反対の文体を持つのが知れる。その文体は「音覚情調」を重んじる折口の「言語情調論」の詩学の理想に叶ったスタイルではなかったか。また「玉葉集」「風雅集」の神祇と釈教の部立に注目しよう。些細に検討すれば浄土宗西山派の教義との密接な関係が証明される。京極派内部の浄土教的心性が察知されよう。京極派叙景歌は夕陽詠を特色とした。一方の折口には『死者の書』にもうかがえるように「西方浄土」への強い願望があった。よって「西を向く」折口にすれば浄土教的心性に染まる京極派和歌の世界こそが自らの理想に合致するものではなかったか。
(詩人)

講演者紹介

安藤礼二

一九六七年、東京出身。文芸評論家、多摩美術大学美術学部准教授。二〇〇二年、「神々の闘争――折口信夫論」で群像新人文学賞優秀作を受賞。同論考を巻頭に収めた『神々の闘争 折口信夫論』で二〇〇五年度芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。現在、「宇宙的なるもの」をめぐって近代日本文学史を再考する新著を準備中。

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松浦寿輝

一九五四年、東京出身。フランス文学者、詩人、映画批評家、小説家、東京大学大学院総合文化研究科教授。一九八八年、詩集『冬の本』で第一八回高見順賞、一九六六年、批評『折口信夫論』で第九回三島由紀夫賞を受賞。二〇〇〇年、小説『花腐し』で第123回芥川龍之介賞を受賞。詩、小説に加え、通俗的映画をも射程に入れた、慧眼かつ幅広い映画評論でも有名。