【報告】昭和文学会第39回研究集会
- 日時 2006年12月16日(土) 午後1時30分より
- 会場 大妻女子大学 講義棟 1F 155教室
- 開会の辞
大妻女子大学 熊木哲 - 研究発表(司会 松村良・森井直子)
- 柳美里の小説と九十年代の〈家族〉 –「もやし」「潮あい」「家族シネマ」を中心に
呉順瑛 - 中島敦「弟子」論
奴田原諭 - 鏡と牢獄の映像都市 –安部公房/勅使河原宏「燃えつきた地図」論
友田義行 - 「潮騒」のなかの戦後 ――自作解説の再生産をこえて
杉山欣也
- 柳美里の小説と九十年代の〈家族〉 –「もやし」「潮あい」「家族シネマ」を中心に
- 閉会の辞
代表幹事 栗原敦
- 開会の辞
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発表要旨
柳美里の小説と九十年代の〈家族〉 –「もやし」「潮あい」「家族シネマ」を中心に
呉順瑛
九十年代に発表された柳美里の小説の主人公たちには、「不安」「苛立ち」「怒り」「虚脱感」のような感情パターンが一貫して見られ、快と不快の起伏が両極端に揺れ動き、突如として常軌を逸した理解しがたい行動を見せることが多々ある。例えば、「もやし」の鏡子は不倫関係の相手を引き止めるために、何度も自殺未遂を引き起こし、一回しか会ったことのない「精神薄弱児」との結婚を一瞬にして決意する。「潮あい」の麻由美は自分が想像した架空の気球が降りてこないことで怒りを爆発し、現実的根拠のない勝手な思い込みで一人の転校生に激しい攻撃性をぶつける。「家族シネマ」の素美は初めて会った老人の家に泊まり、尻の写真を撮らせたりするのだ。
本論ではこのような登場人物たちの心理のメカニズムを明らかにし、何が以上のような行動パターンを成り立たせているのか分析する。それから登場人物たちが見せる攻撃性や他者に対するコントロール欲求、対関係などを「もやし」「潮あい」「家族シネマ」を中心に考察する。
以上の分析を踏まえた上で、登場人物たちが見せる行動様式に家族関係が密接に係わっていることに注目し、柳美里の小説の特徴が九十年代の日本の家族史と密接な関連があることを明らかにしたい。(東京学芸大学連合大学院)
中島敦「弟子」論
奴田原諭
中島最晩年の作である「弟子」に関して、常に問題とされてきたのは〈子路の死〉を如何様に受け取るか、即ち「見よ! 君子は、冠を、正しうして、死ぬものだぞ!」との絶叫をどう定位するかであった。「形」を受け入れ、子路は孔子の弟子として死したのか、ことばの意味やその行動とは裏腹に、矢張り「形」を軽蔑する者としてその生を終えたのか。若干の変奏があろうとも、その一点は動くまい。だが、そういった二者択一の地点から作品を解き放ち得たならば、〈行為者〉・〈認識者〉といった抽象的概念を離れ、それぞれが相対的な関係たらざるを得ぬ具体的な人間そのものとして彼らは動きだすのではあるまいか。孔子の思想に子路が取り込まれることもなく、子路によって孔子の思想が否定されることもない、相対的で同等な関係性。だが、作品世界に於いて何故にそれが可能であったのか。恐らくそれは書き手の存在様態に帰す問題であろう。この〈相対性〉は書き手位置についても指摘し得るのである。例えば書き手が一登場人物に沈潜した時、登場人物は、或いはその死は書き手によって定位され、絶対化されてしまう。『古譚』四篇や『わが西遊記』の世界はそうであった。だが「弟子」では書き手によって登場人物やその死が位置付けられはしない。それぞれを外部より静かに見つめているのみなのだ。この、書き手の相対的な位置取りは方法的な意味に於いて、同時に思想的な意味に於いて中島が文学の中で目指したものではないのか。この指摘を目指し、「弟子」一篇の解読を試みる。(常磐大学非常勤講師)
鏡と牢獄の映像都市――安部公房/勅使河原宏「燃えつきた地図」論
友田義行
安部公房の『燃えつきた地図』(一九六七年)は、失踪人のゆくえを追う探偵が自らもまた失踪者になっていく筋だけでなく、舞台である大都市の描写が高く評価され、後に都市論が興隆した時期にも「画期的」(奥野健男)な都市小説として論じられてきた。読者が辿る物語の内空間や、観客が俳優の後ろに観る風景を重視する手法は、安部と勅使河原が花田清輝の理論を共有・継承しつつ、一貫して取り組んできた課題である。未だ意識化されぬ現実を発見することで言語を変革する可能性を、映像に見出した安部は、この小説の執筆時に「映画的手法の小説への逆輸入」を意識していた。そうして産出された言語表現、特に都市の描写とは、具体的にどのようなものだったのか。また、映画的手法で書かれた小説を基に制作された映画は、どのようなイメージを構築しただろうか。本発表では原作と映画を往還しつつ、後者の問題を中心に考察するが、物語に沿って解釈を導き出したり、登場人物の心情を探ったりすることに終始せず、映画のテクストが持つ固有の秩序(イメージの構成)を探究したい。その手がかりとして、「鏡」「牢獄」というキーワードを見出した。これらを軸に、映画「燃えつきた地図」の「映像の構文法」(溝口彰子)を解読したい。「鏡」は「反転《世界》」(美濃部重克)やアイデンティティ表象、「牢獄」は視覚装置や身体性の問題とも接続するだろう。安部と勅使河原が迷い込みながら生け捕りにした都市空間を、今もう一度歩いてみよう。(立命館大学大学院)
「潮騒」のなかの戦後――自作解説の再生産をこえて
杉山欣也
没後三十五年(二〇〇五年)を経て、三島由紀夫を語る〈場〉はどのように変化しただろうか。メディアの主導する喧噪の中で、従来の〈場〉が強度を増しただけであるように私にはみえる。それは、一九七〇年の自殺の解釈を頂点とする作家探求であり、作品は死に至る作家の軌跡として位置づけられ、作品内部の諸要素は作家の意図へと還元される。このような〈場〉において、作品読解に際しては作者の自作解説が重視される。自作解説に基づいて読まれた作品から作家の実体が想定され、それがふたたび読みの強度を高め…、という同語反復の循環がそこにある。
本発表で取り上げる「潮騒」もその循環によって読みの強度を高められた作品である。「ダフニスとクロエ」を藍本とするという自作解説と三島のいわゆるギリシア体験後に書かれた作品であったことを根拠に、「潮騒」をめぐっては自作解説の再生産が推し進められてきた。本発表で私は自作解説が保証する主題を留保し、むしろ傍流と見なされてきた諸要素(戦争・アメリカ・映画・修学旅行・海…)に着目することで、自作解説の導くものとは別種の読みの可能性を提示する。具体的には、右の社会的・文化的諸要素を作品発表の年である一九五四年前後の状況と接続させることで、純朴な恋愛物語の背景にひそむ〈戦後日本〉の姿を抽出する。この作業によって同語反復の循環から「潮騒」をすくい上げることが本発表の目標である。(筑波大学非常勤講師)