【報告】昭和文学会2007年度秋季大会

  • 日時 2007年11月17日(土) 午後1時30分より
  • 会場 大妻女子大学講義棟1F150教室
  • 開会の辞
    大妻女子大学副学長 大場幸夫
  • 発表(司会 大原祐治・嶋田直哉 )
    1. 「悲劇」・「喜劇」・「責任」―「大岡昇平のシニシズム」から『抱擁家族』へ―立尾真士
    2. 昭和三〇年前後の小島信夫―「馬」を中心に―土屋忍
    3. 小島信夫「うるわしき日々」―「私」のマーマリング― 熊谷信子
  • 講演
    • 小島信夫の小説と小説観千石英世
  • 閉会の辞
    代表幹事 栗原 敦

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発表要旨

「悲劇」・「喜劇」・「責任」―「大岡昇平のシニシズム」から『抱擁家族』へ―

立尾真士

1961年発表の「大岡昇平のシニシズム」の中で小島信夫は、大岡の小説『武蔵野夫人』において語り手が主人公道子の死を「事故」と見なしたことや、「事故によらなければ悲劇が起らない。それが二十世紀である」という記述に対して、「作者」の「責任」回避であると批判した。しかし、ならば小島が述べる「責任」とはいかにして果たし得るものであるか、同論ではついに明らかにされていない。

このとき、同論の数年後に刊行された『抱擁家族』(1965年)において、あたかも『武蔵野夫人』など既存の〈姦通小説〉の「悲劇」性を批判するかのように「喜劇」が強調され、さらにそこでは「責任」という言葉が散見されることに注目したい。小島にとって「責任」とは、「悲劇」ではなくあくまでも「喜劇」において負うべきものだったのではないだろうか。本発表では「大岡昇平のシニシズム」『抱擁家族』を中心に、これまでも小島の小説手法の最たる特徴として論じられてきた「喜劇」の構造・性質を改めて検討するとともに、彼のテクストにおける「責任」の意味とその可能性を考察していく。

(早稲田大学大学院)

昭和三〇年前後の小島信夫―「馬」を中心に―

土屋忍

本発表では、短編小説「馬」を手がかりにして、昭和三十年前後の小島信夫について考えたい。まずは、やや複雑な経緯を辿ったテクストの成立背景を確認し、改稿及び改題の意味を探る。その上で、他の小島信夫作品との関連なども含めて「馬」を分析する予定である。たとえば、「馬」の冒頭における「僕」は、冒頭から文字通り「躓き」「よろけ」ているが、これは芥川賞受賞作である「アメリカン・スクール」(『文学界』昭和29・9)において、三十人ばかりの英語教員が「アメリカン・スクール見学団の一行」として集められ歩かされる姿と重ねることができる。また、自己を認識させる比較対象としての馬という存在は、「馬」と同様に「星」(『文学界』昭和29・4)にも登場する。その他、「馬」における「トキ子」と『抱擁家族』(『群像』昭和40・7)における「時子」のことなど、「馬」を基点(起点)として考察できることは少なくない。

なお、「馬」に関する先行研究は決して多くないのだが、村上春樹による貴重な先行論がある。村上の論を参照しながら、いわゆる「第三の新人」と小島信夫の関係、村上春樹と「第三の新人」の関係、江藤淳による小島信夫論と村上春樹の小島信夫論との比較などにも言及できればと思っている。

(武蔵野大学 准教授)

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言小島信夫「うるわしき日々」―「私」のマーマリング―

熊谷信子

 日本では、多くの私小説が書かれてきた。例えば、自伝的私小説、一人称小説、心境小説、告白小説などがある。

 小島信夫の小説をみていくと、同じ作品内において、ときに自伝的私小説、一人称小説、心境小説、告白小説が取り込まれている。

なかでも、家族に視点をあてた小説では、さまざまなかたちで、私小説の手法が入り込み、そのめまぐるしさに圧倒されることが、しばしばである。

 小島の私小説は、自己の認識、自己の体験を素材に、私小説ならではの変化をあたえている。この変化をもとに、さまざまに話の筋が交差されていく、小島ならではの手法を「うるわしき日々」より読み解いてみたい。

(青梅看護専門学校非常勤講師)

講演者紹介

千石英世

一九四九年、大阪府生まれ。文芸評論家、立教大学文学部教授。アメリカ文学、日本文学を研究テーマとする。アメリカ文学においては、特に19世紀、中でもメルヴィル、20世紀ではフォークナー、さらにカーヴァーなど、日本文学においては、特に、いわゆる「第三の新人」以後今日までの作家について強い関心をもっている。「ファルスの複層――小島信夫論」で第26回群像新人賞〈評論部門〉受賞。著書に『小島信夫――ファルスの複層』(小沢書店、一九八八年)『白い鯨のなかへ――メルヴィルの世界』(南雲堂、一九九〇年)、『アイロンをかける青年――村上春樹とアメリカ』(彩流社、一九九一年)、『異性文学論――愛があるのに』(ミネルヴァ書房、二〇〇四年)ほか。訳書にメルヴィル『白鯨』上下、(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)などがある。