【報告】昭和文学会第41回研究集会
- 日時 2007年12月8日(土) 午後1時30分より
- 会場 二松学舎大学九段キャンパス507教室
- 開会の辞
二松学舎大学学長 今西幹一 - 自由発表(司会 杉山欣也・河野龍也)
1、メタフィクション/寓話/一人称―韓国における村上春樹の「模倣作品」 ―
曺 英愛
2、中上健次『十九歳のジェイコブ』―音が繋ぐトポス―
菅原(須賀)真以子
3、大岡昇平『新しき俘虜と古き俘虜』の問題
関塚誠
4、不在のナーグ―片山敏彦と野口米次郎の場合―
目野由希
- 閉会の辞
代表幹事 栗原 敦
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発表要旨
メタフィクション/寓話/一人称 ―韓国における村上春樹の「模倣作品」―
曺 英愛
一九九二年、韓国の文壇では「ハルキ模倣是非」論争が起き、法廷にまで持ち込まれる事態に発展した。本発表においては、この模倣事件の経緯と背景を検討したうえで、以下の三つの点に注目し、村上春樹の作品とその模倣の疑いをかけられた韓国の現代小説との比較分析を行う。まず、いわゆる「模倣作品」が、自己言及的なメタフィクション系の作品群と非現実的な寓話系の作品群に二分類できることを指摘し、分析する。第二に、両作品群に共通に現れる一人称の語り手の特徴を考察し、この語り手の採用が韓国の文壇に及ぼした影響と必然性を探る。第三に、「模倣作品」が数多く書かれたのが九〇年代前半であり、それらが村上作品の中でも『風の歌を聴け』を始めとする三部作や『ノルウェイの森』などの影響を受けていたことに注目する。最後に、以上の点をふまえて、日韓両国におけるアメリカ現代文学の受容の実態をも視野に入れつつ、韓国での村上作品の受容の意味を考えてみたい。
(埼玉大学大学院)
中上健次『十九歳のジェイコブ』 ―〈音〉が繋ぐトポス―
菅原(須賀)真以子
中上健次作品における重要な概念の一つに、〈音〉と〈記憶〉の想起の関連性が挙げられる。本発表ではジャズ表象に彩られたテクスト、『十九歳のジェイコブ』を通して、両者の関係のあり方について、〈場所〉の問題を絡めて考察する。
一九七八年から八〇年にかけて連載されたこの作品は従来ほとんど論評されていないが、七八年当時の中上によるジャズについての解釈がその「物語」論と深く結びつくことを明らかにする作品として評価できる。全編に溢れる〈音〉は文章に独特のねじれを作り出す〈記憶〉の混入と前後して現れるが、この問題は、「父殺し」の成立の呆気なさをはじめとして、〈架空〉と〈現実〉が紙一重の差でずらされつつ反復する小説の構造とも関わっていくと考えられる。
なお、同時期の作家には同じくジャズを題材とする小説や発言も多いが、それらとの比較を通じて、同時代における、〈音〉の文字言語による表現などについても併せて考えたい。
(お茶の水女子大学大学院)
大岡昇平『新しき俘虜と古き俘虜』の問題
関塚 誠
『新しき俘虜と古き俘虜』は現在『俘虜記』の中の一章として読まれているが、今回は昭和二五年九月「文芸春秋」に発表された初出テキストを短編として扱い、それが『俘虜記』全体にどう関わっているのかを解明したい。戦時中の投降による俘虜が「古き俘虜」、敗戦後の武装解除による俘虜が「新しき俘虜」であったとされ、その対立の根拠となった「戦陣訓」言説との関わりをまず見る。また、同時代の俘虜物との比較から、戦死者への意識がいかに描かれているのかを考え直す。前半の新旧対立を描いた部分、俘虜中の異分子「民主グループ」の部分、米軍看守との関係など、徹底して戦死者が描かれていないことを同時代の文脈の中で考える。そして最後には、新旧対立の収束したあと俘虜の「実存」が「囚人」であったと締めくくられている点に注目し、『俘虜記』全体のエピグラムと関連させながら第二次世界大戦後文学の代表作として再評価するつもりである。
不在のナーグ ―片山敏彦と野口米次郎の場合―
目野由希
タゴール(1861-1941)は、日本と縁の深いノーベル賞詩人である。しかし芸術家肌のタゴール以上に、日印の国策的文化交流に実務的に貢献したのは、彼の弟子、カーリダーサ・ナーグ(Kalidas Nag : 1892‐1966)ではないか。ナーグはインドとフランスで学んだ教育者であり、歴史家であり、美術史家である。彼は国際文化振興会(現・国際交流基金)に協力し、野口米次郎を助け、南米での国際ペンクラブ大会では島崎藤村を感動させ、一九四〇年の東京国際ペンクラブ大会開催案に賛同してみせる。ナーグと日本の文学者の縁は深かったが、現在では彼の功績を日本で見出すのは難しい。このナーグの二つの「不在」―詩人・独仏学者の片山敏彦におけるナーグの不在と、野口におけるナーグの「不在」を、考察してみたい。本発表では、この「不在」は日本側からの、現在に至るまでの国策的文化交流の限界を示すとの仮定に基づき、研究発表を行う。
(国士舘大学)