【報告】昭和文学会2008年度春季大会

  • 日時 2008年6月14日(土) 午後1時30分より
  • 会場 大東文化大学(板橋キャンパス) 中央棟1階 多目的ホール 特集「転換期と文学―昭和四〇年代」
  • 開会の辞大東文化大学 下山孃子
  • 研究発表(司会 杉山欣也・守安敏久)”彼ら”の時代のフォークロア―村上春樹の一九七〇年前後深津 謙一郎

    森崎和江の昭和四〇年代

    水溜 真由美

    寺山修司、虚構の葬列。映画「田園に死す」の〈私〉をめぐって

    中沢 弥

  • 講演「激動の昭和四〇年代・アートシアター新宿文化」葛井欣士郎
  • 閉会の辞代表幹事 栗原 敦

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発表要旨

“彼ら”の時代のフォークロア―村上春樹の一九七〇年前後

深津謙一郎

 いわゆる全共闘世代に属する村上春樹が作家デビューするのは一九七九(昭五四)年。以来、“八〇年代”の村上春樹は、一九七〇年の「直子の死」によって形象化される“何か”を反復強迫的に描いてきた。その“何か”とは何なのか、という問いに意味はないかもしれないが、しかしそれがどのように描かれたか、という問いには意味がある。デビュー当初、日本近代文学からの切断を公言し、じじつそのように受けとめられた村上春樹の小説手法も、やがて(作家自身の言う)「リアリズム」(『ノルウェイの森』)へと接近していく。この過程で何が失われ(何を獲得し)、また、この間終始沈黙させられたものは何なのか。こうした問題を手がかりにしながら、“戦後”の終焉としての一九七〇年前後とそれに対峙する(文学)表現の問題、さらには“戦争の記憶”を媒介に「コミットメント」を図ろうとする村上春樹の“現在”の位置を探ってみたい。(明治大学兼任講師)

森崎和江の昭和四〇年代

水溜真由美

昭和三〇年代、森崎和江は筑豊の炭鉱町で谷川雁と生活を共にし、『サークル村』や『無名通信』の運動に関わり、苛烈な反合理化闘争であった大正闘争の展開に立ち会ったが、昭和三九年に大正鉱業は閉山し、昭和四〇年に谷川雁は筑豊を後にした。昭和四〇年代の森崎は炭鉱町に留まり、昭和三〇年代における闘いの総括を行いながら、問題関心を広げていった。朝鮮、沖縄、与論島、からゆきさんなど、周縁化された場や存在に着目し、それらを筑豊というもう一つの周縁と結びつけながら、日本における支配的な社会関係・文化を相対化し、マイノリティ間の交流と連帯にまつわるヴィジョンを提起した。本発表では、当時の社会・文化状況をふまえながら、昭和三〇年代から四〇年代への森崎和江の問題関心の深化と広がりを跡づけたい。同時に、九州を中心とする様々な社会・文化運動と森崎和江の著述活動との接点も明らかにしていきたい。

(北海道大学)

寺山修司、虚構の葬列。 映画「田園に死す」の〈私〉をめぐって

中沢 弥

寺山修司の映画「田園に死す」(一九七四)は、映像の中断とともに少年の〈私〉と現在の〈私〉が分裂、共存する時空間が出現する。一人の少年の伝記的な物語は、一転して二十年後の少年を自称する人物の出現によってかき乱されるのである。寺山修司にとって、過去の記憶とは改変可能なものであり、時空を超えて死者と生者が出会う場所である〈恐山〉はそうした記憶の修正が行われる場所として画面に登場する。「田園に死す」に限らず、寺山の作品に繰り返される過去の改変は、自らを語る〈私〉の姿をいわばみせけちのかたちで、隠しつつ示そうとする。それが〈寺山修司〉という何者かをわれわれに欲望させるともいえよう。それがいかに時代と絡み合っていたのか検証していきたい。(多摩大学)

講演者紹介 葛井欣士郎
一九二五年、三重県生まれ。映画・演劇プロデューサー。一九六一年、日本初のアートシアター「日本アート・シアター・ギルド(ATG)」設立に際し、その主力劇場である「アートシアター新宿文化」総支配人となる。以来、製作代表として、商業主義を排した、実験精神あふれる映画・演劇を世に送り出し、アングラ文化の仕掛け人として活躍した。主な製作作品に映画『儀式』(一九七一年)、映画『卑弥呼』(一九七四年)、演劇『近代能楽集・熊野』(一九六七年)などがあり、著書『アートシアター新宿文化 消えた劇場』(一九八六年、創隆社)などがある。