2015(平成27)年度 春季大会 【特集 〈知〉の共有のあり方を問う】

2015(平成27)年度 昭和文学会 春季大会
日時 6月13日(土)午後1時より
会場 立教大学 池袋キャンパス 14号館(D501教室)
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1
 
 

特集 〈知〉の共有のあり方を問う ――著作物の権利をめぐって――
 
 

【基調講演】
〈文学作品〉の輪郭を決めるもの ――資本・テクノロジー・著作権――

山田 奨治

 
 
【研究発表】

記録/文学の陥穽 ――〈権利〉の問題として再考する井伏鱒二『黒い雨』事件――

大木 志門

 

著作権を超える創造のケース ――ネット以降の事例を参考に――

藤田 直哉

 

ハンセン病文学における諸問題 ――本名・園名・ペンネーム――

佐藤 健太

 
 

【シンポジウム】

ディスカッサント 紅野 謙介

 

司会 尾崎 名津子・牧 義之

 
 

【企画趣旨】

  文学作品をはじめとした創作物は著作物という商品であり、資本としての一面を抱えている。同時に、過去から現在にわたる人間が産み出した〈知〉として共有されるべきものであるという視点もありうるだろう。
  一体誰が、創作物を〈所有〉しているのだろうか。誰もが容易に情報の発信者となれる今日、創作物に対する権利に気がつかず、あるいは意図的に無視した利用や配信が多分野で横行している反動なのか、あらゆるものが商品とみなされる社会情勢も相まって、創作物の資本としての側面が重視され、著作物の〈所有〉をいかに定義し、保障するかをめぐっての法的対策が強化されている。法改正やTPP交渉次第では、新たな局面を迎える可能性もあるだろう。著作の〈所有〉に関わる議論は、創作物の権利を無視して利用することと、その権利を守ることとの対立関係をめぐってなされることが多いが、このレベルでの議論は、創作物を私的な〈所有〉の領域へと囲い込むことを無条件の前提としたものであり、〈知〉の共有されるべき側面を考えにくくしてしまっている。すなわち、「二次的著作物」や創作主体の措定不可能性、メディアテクノロジーの環境変化に伴う概念の変化、法と企業資本の倫理との関係性など、多様な今日的問題が見逃されてしまう恐れがある。
  文学研究の水準においては、あたかも永遠に同一性を保持されるべき歴史的産物であるかのように個別の作品が論じられてきた一方で、テクスト論導入以降は創作物が〈作者〉という一つの起源に回収不可能なものとして捉えられてきた。これらの経緯が如上の問題にどのように関わるのだろうか。
  本企画が目指すのは、著作権に関する研究、文学研究・文学批評というそれぞれの立場からの発言をふまえ、著作の権利に関わる当面の問題や今後の課題を分かち合う場を作ることである。殊に、著作物をめぐる現状が法と資本によって強固に下支えされていることに対して自覚的でありつつも、その論理とは異なる視座から〈知〉の共有のあり方を問う言説を、いかに構築できるのか追究してみたい。
 
 
【講演者略歴】
山田 奨治(やまだ・しょうじ)
  1963年、大阪市生まれ。筑波大学大学院修士課程医科学研究科修了後、日本アイ・ビー・エム株式会社、筑波技術短期大学助手などを経て、現在は国際日本文化研究センター教授・総合研究大学院大学教授。京都大学博士(工学)。専門は情報学と文化交流史。
  著書に『日本文化の模倣と創造』(角川書店)、『禅という名の日本丸』(弘文堂)、『情報のみかた』(弘文堂)、『〈海賊版〉の思想―18世紀英国の永久コピーライト闘争』(みすず書房)、『日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか』(人文書院)、『東京ブギウギと鈴木大拙』(人文書院)などがある。知的所有権に関する研究の他、日本文化、大衆文化、情報文化、人文情報学などを主なフィールドにしながら、情報の生成・伝達・変容・保存・消滅から再創までの、すべてを視野に置いた執筆活動を行っている。

 
 

【発表要旨】
記録/文学の陥穽 ――〈権利〉の問題として再考する井伏鱒二『黒い雨』事件――

大木 志門(山梨大学)

 

  戦後文学で井伏鱒二『黒い雨』(1965年)ほど名声からの失墜を味わった作品はないだろう。作家が他者の日記を利用することによって成立したこの原爆文学の代表作は、ある人物の告発をきっかけに「盗作」事件としてマスメディアを賑わせた。さらに井伏の没後、猪瀬直樹『ピカレスク 太宰治伝』(2000年)の刊行などで問題が再燃し作品の評価は地に落ちた。その後、本作の元になった『重松日記』の刊行などにより、井伏テクストの復権・再評価が進んでいるが、この「盗作」事件の問題の所在は置き去りにされたままであるように思われる。もちろん「盗作」とは法律用語でなく、元より法的問題でないことも自明であったこの事件は、果たして「文学」の何を巡って争われたものであったのか。素材と文学作品の関係、ノンフィクションと小説の関係、事実と創作物の関係、文学と法の関係等について示唆を与えてくれるこの事件について、あらためて「権利」の問題として再考することで見えてくることを明らかにしたい。
 
 
著作権を超える創造のケース ――ネット以降の事例を参考に――

藤田 直哉(批評家)

 

  著作権があることによって、創作者の利益が保護される。そのことの重要性も必要性も充分承知の上で、「著作権無視」が創造性を生むケースを、現在のネットでの事例などを参考に見ていく。
  例えば、『電車男』、二次創作、クソコラ、MAD、FLASHなどが挙げられる。ネット以前から、「きちがいテープ」などの名前で、既存の作品をコラージュしたりパロディ化する作品は、アンダーグラウンドで、出回っていた。これらは、厳密に言えば、著作権違反である。しかし、そこには、「匿名」の者たちの、現世的な利益を超えた何某かの表現への欲望や、楽しみ方がある。そこは、いわゆる大衆文化の生まれる原初的な欲動の在り処であり、母体でもある。
  著作権をあまりに厳密に運用して駆逐してしまうと、文化の全体にも影響を与え衰退する可能性がある。著作権の保護と、このような「著作権無視」の創造性を擁護し、生かすためには、複雑な戦略が必要とされる。
 
 
ハンセン病文学における諸問題 ――本名・園名・ペンネーム――

佐藤 健太(出版営業・編集業)


  ハンセン病文学(ここでは歴史をつうじてハンセン病を経験した病者たちが書いた文学作品のことを指す)を研究する際に、作品の書き手が誰なのかを特定することは重要でありながら、非常に困難がともなう問題である。昨年、北條民雄の本名がはじめて公にされたが、長年にわたる隔離政策下で親族も含めて偏見にさらされた歴史がハンセン病にはあり、研究者が本名を知ろうとすることに積極的であるべきではないだろう。日本においてハンセン病療養所へ入所する/させられたときに、多くのひとが所内で流通する園名を名乗った。しかしこの園名も、べつの療養所へ移る(転所/転園)際に変わることがある。また創作にあたってさまざまなペンネームを名乗っていたことも、近年の調査から判明している。転所経験や園名、複数のペンネームを把握しなければ、ひとりの書き手を総合的にとらえることは困難である。本発表では具体的な事例をあげながら、書き手のアイデンティファイをめぐる問題について報告する。