2014(平成26)年度 昭和文学会 春季大会【特集:Unheimlich ――1920-1960】

2014(平成26)年度
昭和文学会 春季大会

会場 日本大学商学部 3号館講堂
〒157-8570 東京都世田谷区砧5-2-1
日時 6月14日(土)午後1時より

 
特集 Unheimlich ――1920-1960
 
【研究発表】

記憶のなかのアヴァンギャルド

野本 聡

 

二つの「爆発」――岡本太郎と横光利一――

位田 将司

 

「Das Unheimliche」を展開させること

渡邊 史郎

 

【講演】
昭和文学とダダ・シュルレアリスム

巖谷 國士

 
【シンポジウム】

ディスカッサント 勝原 晴希

 

司会 石川 偉子・三浦 卓

 

※ 研究集会終了後、懇親会を予定しております。予約は不要、当日受付にてお申し込みください。
 

【講演者紹介】
巖谷國士(いわや・くにお)

1943年、東京生まれ。東京大学文学部卒・同人文科学系大学院修了。仏文学者、エッセイスト、明治学院大学名誉教授。60年代から、シュルレアリスムの研究と実践を進めながら、文学・美術・映画・漫画などの批評、翻訳、世界各国の都市や庭園や遺跡をめぐる紀行、植物を中心とする博物誌、メルヘンの創作、美術展の監修、講演、写真個展など、さまざまな分野にわたって自由な活動をつづけている。
主著に『シュルレアリスムとは何か』『封印された星 瀧口修造と日本のアーティストたち』『澁澤龍彦 幻想美術館』『日本の不思議な宿』『フランスの不思議な町』『イタリア 庭園の旅』『オリエント夢幻紀行』『映画 幻想の季節』『森と芸術』『〈遊ぶ〉シュルレアリスム』など。主訳著にアンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』『ナジャ』、マックス・エルンスト『百頭女』、ルネ・ドーマル『類推の山』など。
最新著に『幻想植物園 花と木の話』(PHP出版局)がある。
 
【発表要旨】
記憶のなかのアヴァンギャルド

野本 聡

ホフマンの『砂男』よろしく60年代後半の子供たちにトラウマ的恐怖を残した不気味な表象に他ならぬ「ダダ」の名が付けられていたことを思い出したい。『ウルトラマン』に登場する「三面怪人ダダ」である。この命名を確かに「ダダイズムに由来し、既成概念では理解し難い宇宙生物を意図し」たと回想する脚本家山田正弘は、詩人としての経歴を持ち、また同時期に大杉栄をモデルとした映画『エロス+虐殺』の脚本も担当している。60年代から辿るイメージ表象としてのアナキズム、ダダイズム、そしてテロリズムの水脈がここに伏流しているのだ。まさに「ダダ」はダダであった? あるいは野坂昭如『てろてろ』において登場するテロリストの一人「オナニスト新吉」の名は明らかに「ダダイスト新吉」のパロディなのだが、60年代末、テロルとオナニーが近接する地点にダダが想起されることにも着目したい。それはむしろ20年代アヴァンギャルドの読み換えを導く契機ともなるからだ。
 
二つの「爆発」――岡本太郎と横光利一――

位田将司

岡本太郎にとって芸術は、「矛盾」が内在させるエネルギーによって制作されるものであった。1940年代以降、特にそれは「対極主義」という形をとり、芸術の放つエネルギーは「火花」から「爆発」へと、その規模を拡大していく。一方、この「爆発」を1920年代において、自らの文学理論に取り入れていたのが、横光利一であった。横光もまた文学に内在する「矛盾」がエネルギーを生み出し、それが「爆発」する時、文学の「新感覚」が現れると表現していたのである。
 本発表では、「矛盾」が引き金となるこれら二人の「爆発」を、偶然に一致した表現だとは捉えず、芸術及び文学の在り方を刷新しようとした、アヴァンギャルドの系譜のなかで捉えられると考える。こう考えることによって、二人の「爆発」の構造が、同時代の精神分析・認識論・存在論が見出していた、「不気味なもの」あるいは「不安」の概念とも相即していることが判明するだろう。1920年代の横光の「爆発」から、岡本の「太陽の塔」(1970)にまで続く「爆発」のエネルギーを、このアヴァンギャルドの構造から分析してみたい。
(日本大学)
 
「Das Unheimliche」を展開させること

渡邊史郎

第一次大戦直後、フロイトが「Das Unheimliche(不気味なもの)」を発表した1919年は、シュルレアリスムの画家マックス・エルンストが「コラージュ」の方法を発見した年でもある。20年後、第二次大戦開始を尻目に花田清輝は、「赤ずきん」で、「コラージュ」を「デペイズマン(置換法)」として散文に応用し、「童話考」でエルンストやロートレアモンを賞賛する。シュルレアリスムの文献から、花田は、自らの芸術論やスタイルを確立するうえでの材料を得た。が、彼はシュルレアリスムを両価的に捉え、自意識の錯乱や精神病と結びつけてもいた。『自明の理』以降の花田の作品は全体としていわばかかる《病》の治癒を志向していて、故にブルトンより彼と対立したヴァレリーが評価されることにもなる。また、屡々フロイトへの批判がある一方で、「Das Unheimliche」の叙述に似たロジックを展開していると見做される。ハイデガーと異なり、フロイトは「不気味なもの」の特徴を、不安などの心的機制より、寧ろ人間の自由な言語表現に結びつけているように思われるのだが、この点は花田にとっても重要だったはずである。このことが『復興期の精神』、1960年代の歴史小説群の成立に何をもたらしたかを考えたい。
(香川大学)
 
【企画の趣旨】
日本におけるダダやシュルレアリスム、およびその周辺の芸術運動は、ともすれば西洋から移入された一過性の流行として捉えられ、技法上の問題を中心に論じられてきたきらいもある。しかし、そこには昭和文学に底流する問題が含まれていないだろうか。たとえばDas Unheimliche ―「無気味なもの」― という視点を設定してみよう。ハル・フォルスターは、シュルレアリスムに近代文学とも本質的な関わりを有する、フロイト的な故郷喪失性との思想的な近接性を見ている。フロイトはunheimlichの本質を「抑圧されたものの再来」であるとしているが、であれば〈わたし〉の問題と無関係ではないはずである。あるいは、1920年代・1960年代という視点に立ってみてもよいだろう。「私は誰か?」の問いを含むブルトンの『ナジャ』(1928)は、1963年に「著者による全面改訂版」が出版、早くも1970年には邦訳が上梓されている。二度の大戦を経て、複製技術が花開いたこれら二つの時代にゆるやかに焦点をあて、交通させることで拓ける展望があるのではないだろうか。当日は、『ナジャ』の翻訳者でもあるシュルレアリスト巖谷國士氏をお迎えし、ダダやシュルレアリスムと名指される様々な現象の生起した「現場」を垣間見ながら、技法や流行では片付かないものを浮かび上がらせることができればと考えている。
各研究発表と講演の後、ディスカッサントに勝原晴希氏(駒澤大学)を迎えてシンポジウムを開催する。会場の積極的なご参加を願いたい。
(司会)