2014(平成26)年度 昭和文学会 秋季大会 【特集 挿絵と文学】

2014(平成26)年度 昭和文学会 秋季大会

日時 11月8日(土)午後1時より
会場 成蹊大学 6号館501教室
〒180-8633 東京都武蔵野市吉祥寺北町3-3-1
 

特集 挿絵と文学

 

【研究発表】
イメージの移植――1930年代の岩田専太郎を中心に――

諸岡 知徳

新聞小説としての『旅愁』――横光利一と藤田嗣治の風景――

中村ともえ

秘術の叙法と視覚情報――剣豪・忍法小説と挿絵――

牧野 悠

 

【講演】
私説 挿絵史 そしてイラストレーション

宇野 亞喜良
司会 市川 紘美 高橋 孝次

*大会終了後、懇親会を予定しています。

 

【講演者紹介】
宇野 亞喜良(うの・あきら)

   1934年、名古屋生まれ。名古屋市立工芸高校図案科卒業。カルピス食品工業、日本デザインセンター、スタジオ・イルフイルを経てフリー。日宣美特選、日宣美会員賞、講談社出版文化賞、サンリオ美術賞、赤い鳥挿絵賞、日本絵本賞等を受賞、日本宣伝賞山名賞等を受賞。1999年紫綬褒章受章。2010年旭日小綬章受章。
   主な作品に『宇野亞喜良60年代ポスター集』『サロメ』『少女からの手紙』『奥の横道』『MONO AQUIRAX +』、絵本に『あのこ』(今江祥智・文)『白猫亭』『上海異人娼館』(寺山修司・原作)、詩画集『大きなひとみ』(谷川俊太郎・詩)等多数。キュレーターや舞台美術も手掛ける。

 

【発表要旨】
イメージの移植 ――1930年代の岩田専太郎を中心に――

諸岡 知徳(甲南大学非常勤)

   挿絵の歴史はかなり古くまで遡ることが可能であるとはいえ、複製技術による大きな転換が近代に至ってもたらされたことはいうまでない。一つの重要な基盤として複製技術を考えたとき、挿絵ということばにもさまざまな種類を想定されなければならない。例えば、雑誌と新聞など、その扱い方も異なるはずだ。雑誌の場合、ジャンルに合わせて独自の形式をもつ挿絵が展開していった点も指摘できる。それと逆にマスメディアとして発達した新聞の場合、そこに掲載される挿絵も独特の様式を持つことになったといえる。新聞挿絵が飛躍的な変化をとげたのは、新聞メディアの大衆化が進み、それに伴い複製技術も大きく発達した1920年代後半から30年代のことであった。新聞紙面には大衆向けの小説が数多く掲載され、その中央に位置する挿絵は小説とは別の意味でその存在感を発揮していた。
   本発表では30年代の新聞挿絵の意味を挿絵画家・岩田専太郎の挿絵に注目することで、挿絵と小説の関係のあり方や、挿絵の独自の表現形式について考察していきたい。

 

新聞小説としての『旅愁』 ――横光利一と藤田嗣治の風景――

中村ともえ(静岡大学)

   東京日日・大阪毎日新聞社の社友として渡仏した横光利一は、帰国後の昭和12年4月、日日・大毎新聞紙上でフランスを舞台にした小説『旅愁』の連載を開始する。挿絵を担当したのは、フランスで活躍しこの頃は日本に定住していた画家・藤田嗣治である。横光は連載の予告を「外国のことを書くには風景を書く方が近道と思ふ」とはじめ、「日本人が日本にゐるときと、外国にゐるときとは、総ての点に於て変」ることを「風景と人間の心理」の「関係」を通じて書くという構想を明かしていた。だが日中戦争開戦によって連載は中断し、後に雑誌上で書き継がれた部分では主人公の男女の帰国後の物語が長く展開された。本発表では、後続の部分と齟齬をきたし単行本に収められなかった新聞連載の部分を『旅愁』の総体とは切り離し、本文と挿絵からなる新聞小説として捉えなおす。本文と挿絵の表現を分析し、『旅愁』の当初の構想にあった風景という問題の射程を明らかにしたい。

 

秘術の叙法と視覚情報 ――剣豪・忍法小説と挿絵――

牧野 悠(千葉大学非常勤)

   時代小説のハイライトである剣戟場面(チャンバラ)の表現技巧は、昭和30年前後に刷新されている。それまでは概して、テキストに情報が乏しく、添えられた挿絵がリアリティを担保していた。倶楽部系雑誌等の図像が大半を占めた頁は、イメージ形成に関与していた視覚の雄弁さを端的に物語る。
   だからこそ、特異な剣法を描く五味康祐「喪神」が、挿絵のない文芸誌に掲載後、芥川賞に選ばれた事実は、重要な分水嶺といえる。以降、架空の剣の創出に先鋭化した「剣豪小説」では、視覚情報に依存しない自立性の獲得が志向されていた。文芸の変質が、読者の認識や態度に転換を迫ったことは、五味「柳生連也斎」での、挿絵が物語に忠実であるにもかかわらず、理解に齟齬が生じた現象からも読み取れる。
   また、後続する柴田錬三郎「眠狂四郎無頼控」や山田風太郎の「忍法帖」シリーズ等での、テキスト情報に違背する挿絵や、資史料の挿絵が作家に技そのものを着想させた事例を検討する。これら虚構の秘術を主題とする作品において、視覚が担った機能を考察し、ジャンル革新期として再評価を試みる。

 

【企画の趣旨】
   近現代文学研究において「文学を読む」という行為は、端的に捉えるならば、紙面に印刷された文字を通してその世界内容を把握しようとする行為である。では、文字の羅列のなかに挟まれた挿絵は、読書行為のなかでは添え物にすぎないのだろうか。確かに挿絵は純粋な読書体験においては読みのノイズともなりえる。だがその一方で、時に読者を導き、あるいは迷わせ、更には作品世界の視覚化によって言語表現を補完し、読者の感性を刺激するのであり、その意味でやはり挿絵も読書体験に寄与するものなのだ。また、同一作品であっても発表媒体によっては挿絵が変更されたり、挿絵画家自体が交替したりする。つまり、どの挿絵が載った媒体を選ぶかによって、読書体験が左右される場合があり、これが存外にその作品解釈に大きな影響を及ぼすのである。挿絵は文字と並んで個々の読書体験を支える重要なファクターといえるのだ。
   関東大震災を契機として、大衆ジャーナリズムの主軸となる新聞の発行部数は増大し、同時に月刊誌から週刊誌へとより時事的な情報発信がなされるようになる。また、雑誌界の中心が博文館から講談社へと移行し、新たな読者層を開拓してゆくのもこの時期である。挿絵では大正末から昭和初期にかけて小出楢重や藤田嗣治など洋画家が進出し、美人画系の日本画家と肩を並べるようになり、更に吉川英治『鳴門秘帖』の挿絵を担当した岩田専太郎といった挿絵専門の画家が登場することとなる。こうした流れの中で生じた大衆文学の興隆は、白井喬二が作家と挿絵画家との関係を野球のバッテリーになぞらえたように、その重要な一角を挿絵が担っていたことは疑いない。
   また、大衆文学を支えた画家のひとりに石井鶴三が挙げられる。石井は中里介山『大菩薩峠』の挿絵を担当したが、彼が挿絵集を出そうとした際、介山は出版中止を求める訴訟を起こした。物語から着想を得た挿絵は小説の複製であると主張する介山に対し、石井は画家に著作権があると反論。結果的に石井の勝訴となったこの事件は、挿絵への関心を高めると同時に挿絵の位置を明確に示す契機となった。挿絵のオリジナリティをめぐって争われたこの裁判は、その後の小説と挿絵の関係を象徴する事件ともいえる。
   今回、近現代文学研究の一環として挿絵に光を当てることは、文学者・挿絵画家・出版・編集・読者といった複数の場が関わる文学生成の多層性を捉え直すことに繋がるだろう。挿絵と作品内容との有機的な関係を多様なメディアを介して解き明かすことによって、挿絵が如何に読書体験、更には文学自体を左右するか、その働きを多方面からクリティカルに浮かび上がらせたい。(司会)