第54回 昭和文学会 研究集会【特集:食―身体・技術・暴力】

2014(平成26)年度
第54回 昭和文学会 研究集会

会場 大正大学 巣鴨キャンパス 5号館 531教室
〒170-8470 東京都豊島区西巣鴨3-20-1
日時 5月10日(土)午後2時より
特集 〈食〉――身体・技術・暴力
 
【研究発表】

「たましひ」たちの「真剣な世界」――戦間期における「食」と賢治童話

中村 晋吾

 

無塩(ぶえん)の魚 石牟礼道子の「近代」

佐藤 泉

 

〈食〉のゆらぎ――身体論で読み解く文学の現在――

近藤 裕子

 

司会 倉田 容子・野澤 涼子

 

※ 研究集会終了後、懇親会を予定しております。予約は不要、当日受付にてお申し込みください。
 
【発表要旨】
「たましひ」たちの「真剣な世界」――戦間期における「食」と賢治童話

中村 晋吾

宮沢賢治の「よだかの星」では、「食う/喰われる」をめぐる描写を通じて、他者を殺し、また殺されもする「じぶん」をかかえる、生命たち相互が捉われる関係が、鮮明に描き出されている。他にも、「蜘蛛となめくぢと狸」や「フランドン農学校の豚」、「なめとこ山の熊」などの作品から見てとれるように、賢治童話における「食」という主題は、多くが欺瞞の論理によって隠蔽される「加害/被害」を伴う他者との関係に光をあて、さらには、「ビヂテリアン大祭」や「銀河鉄道の夜」に託されたように、現存する状況を超えるイメージを呼び起こす媒介ともなる。
本発表では、1910年代後半から20年代初頭にかけての書簡や、同時代の田中智学の言説について確認しながら、賢治が戦間期という状況の中で、その「食」をめぐる思想を、智学が提唱した「食/道」の思想から、どのように換骨奪胎し、独自に発展させたのかを考察する。
(早稲田大学高等学院非常勤講師)
 
無塩(ぶえん)の魚 石牟礼道子の「近代」

佐藤 泉

水俣病を世に知らしめた『苦海浄土』にせよ、災厄以前の水俣、天草を書いた『椿の海の記』にせよ、あるいはさきごろ刊行された自伝『葭の渚』にせよ、私たちの印象になにより深く刻まれるのは、そこに描かれた海辺の食ではなかったかと思われる。舟の上でさばいた魚や、自分らの庭先に広がるような海でさっとすくってきた青い海藻の吸い物や、ごく当たり前の書きぶりでそこに書き留められているのは、間違いなく至上の贅沢だ。そして私たちはその海辺の「栄華」から、決定的に隔てられている。石牟礼道子の描く美食を、ここでは私有でも公有でもない海から授かった、返済不可能の「負債」として読み、これを水俣病原因企業が患者に対して支払う「補償額」の思想と対比し、また、みずからが魚たちを殺して食べていることの「暴力」と「罪」を自覚する漁師と、「補償金」を支払う企業とを対比することで、「交換」、「負債」、「暴力」、そしてなにより私たちの文化の基盤をなす「市場経済」の意味を考えることにしたい。
(青山学院大学)
 
〈食〉のゆらぎ――身体論で読み解く文学の現在――

近藤 裕子

長らくパンや(めし)は生きることの喩であり続けてきた。しかし、食の安定供給が実現してゆく中で、それは生存よりは関係の喩として臨床や文学の場に浮上してきたように思われる。一緒に食べること、味わいを共にすることに親和性や交流性を見たのは大平健(「食と性―その共通根を求めて―」)だったが、関係がきしむ時、味わいは失われ食事の場は苦痛に変わる。その苦痛を振り払うように、ある者は食べることを拒んで個室にこもったり、吐き続けたりする。また別の者は、食うことを無理強いしたり、食べ物に悪意を混入して煮込んだりする。本発表では、村上春樹や小川洋子、川上弘美、山本昌代らのテクストを対象に、こうした〈食〉の現代的な様相を捉えつつ、そこに潜む心のもつれや結ぼれを探ってゆく。また、関係のきしみが、新しいどのような〈食〉のあり方を求めてゆくのかについても、身体論、臨床的視点をまじえながら考えてみたい。
(東京女子大学)