第52回 昭和文学会 研究集会【特集:昭和文学と〈監禁〉の欲望】
2013(平成25)年度
第52回 昭和文学会 研究集会
会場 白百合女子大学 一号館三階一三〇八教室「ポルタ・チェーリ」
〒182-8525 東京都都調布市緑ヶ丘1―25
日時 5月11日(土)午後2時より
特集 昭和文学と〈監禁〉の欲望
【研究発表】
監禁と脱走の『犬神博士』
――脱走の鍵としての幻魔術―― 今井 秀和
安部公房『箱男』論
――見ることと見られることの関係をめぐって―― 片野 智子
現代文学における監禁する/監禁される関係について
――平野啓一郎『決壊』を手がかりに―― 種田 和加子
司会 清水潤・滝上裕子
(質疑は、3名の発表の終了後に合同で行います。)
※ 研究集会終了後、懇親会を予定しておりますので、皆様、ふるってご参加下さい。なお、懇親会のご予約は不要、当日受付にてお申し込み下さい。
【発表要旨】
監禁と脱走の『犬神博士』――脱走の鍵としての幻魔術―― 今井 秀和
何者かによって個人の自由が奪われた状態を〈監禁〉と呼ぶならば、夢野久作の世界は実に多様な〈監禁〉に満ち溢れている。『犬神博士』は、国士集団筑前玄洋社、官憲、博徒などの権力が、チイ少年(後の犬神博士)を支配せんと〈監禁〉を目論む物語である。チイの育ての親たる放浪の旅芸人男女からして、彼を暴力で支配する〈監禁〉者であった。しかしチイは、それら全ての〈監禁〉から脱走し続ける。そして物語の後半、彼の脱走の〝鍵〟となるのが、玄洋社の暴徒から付けられた〝幻魔術(ドグラマグラ)使い〟という属性であった。チイはその二つ名を逆手にとって更なる脱走劇を繰り広げる。一方、『犬神博士』の後に書かれた長編『ドグラ・マグラ』は、主人公、そして読者を幻魔術に巻き込み〈監禁〉する物語だったと言える。夢野文学における〈監禁〉は一体何を指し示すのか。幻魔術というキーワードを手がかりに、『犬神博士』を新たに読み直したい。
(大東文化大学非常勤講師・蓮花寺佛教研究所研究員)
安部公房『箱男』論――見ることと見られることの関係をめぐって―― 片野 智子
今回の発表では、安部公房の他の作品とも関わらせながら、『箱男』に描かれた、都市という場における視線と監視の問題を中心に考えたい。段ボール箱を被り都市を徘徊する箱男は、見られることなく他者を一方的に見つめることが出来るという点において、都市に蔓延る監視の視線をかいくぐり、絶対的な匿名性を獲得しているかに見える。しかし自らを箱の中に監禁する箱男もまた、都市の監視の視線に縛られている。その視線はどこから来るものなのか、そこから抜けだす術はあるのか。また、『箱男』では〈見る―見られる〉という問題と書くという行為が深く関係している。箱男はもう一人の箱男に出会うことによって、書いている自己と書かれている自己のズレに気付く。贋箱男を告発するための「ノート」が、自己を監視し、やがて「遺書」として自己を処罰するためのものへと転換していく。それは一体何故なのか。そうした視線と監視と書くことの関連性を中心に考察することで、現代にまで通用する『箱男』という作品の持つ可能性を示したい。
(学習院大学大学院生)
現代文学における監禁する/される関係について――平野啓一郎『決壊』を手がかりに―― 種田 和加子
近代化の過程で発明され「洗練され」た学校、病院、警察など「教育―調教(検閲―治療)」のシステムは、「主体」をたちあげることに成功したかにみえるが、平野は一連の作品で「個人」「主体」を維持しつづけることに現代人が倦みはてていることを問題化してきた。『決壊』(二〇〇八年)にみられる監禁の欲望とはネット社会で少しばかり解放されようと思っていた沢野崇の弟(良介)や中学生北崎友哉を検閲しているまなざしであるが、それは、家族、「悪魔」、匿名の存在、犯罪を犯す少年たちの穿視願望の総体であり、誰の欲望とは断定できない。また、弟殺しの冤罪で警察が兄崇を拘束し続ける恫喝的な言葉や拷問的な心理作戦も監禁の欲望にほかならない。沢野崇と弟良介をめぐる現代のカインとアベルの物語ともいえるこの作品を通して監禁する、される双方向の欲望のねじれやゆがみ、ずれについて考察する。
(藤女子大学)