【お知らせ】2012(平成24)年度  昭和文学会 春季大会

2012(平成24)年度

 昭和文学会 春季大会

会場 東洋大学 白山キャンパス6号館B1 6B12教室
〒 112―8606 東京都文京区白山5―28―20
日時 6月9日(土)午後1時30分より

特集 ノンフィクションという手法
開会の辞

東洋大学文学部長 中山 尚夫

研究発表
フィクションとノンフィクションの境界
――松本清張「『スチュワーデス殺し』論」と『黒い福音』

大塩 竜也

「小説家」の「ルポルタージュ」
――中上健次『紀州 木の国・根の国物語』

須賀 真以子

『無名』と名づけること
――沢木耕太郎と「私小説」

山内 洋

講演
私のノンフィクション術と小説作法

髙山 文彦

閉会の辞

代表幹事 日高 昭二

司会 守屋 貴嗣・吉田 恵理

※  大会終了後、総会と懇親会を予定しています。

講演者紹介】髙山 文彦(たかやま・ふみひこ)

一九五八年、宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。一九九九年刊の『火花 北条民雄の生涯』(飛鳥新社、のちに角川文庫)で、第三一回大宅壮一ノンフィクション賞と、第二二回講談社ノンフィクション賞を受賞。主な著書に『「少年A」14歳の肖像』『水平記 松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年』(共に新潮文庫)、『ネロが消えた』(飛鳥新社)、『あした、次の駅で。』(ポプラ文庫)、『孤児たちの城 ジョセフィン・ベーカーと囚われた13人』(新潮社)、『鬼降る森』『父を葬(おく)る』(共に幻戯書房)、『エレクトラ 中上健次の生涯』(文春文庫)などがある。また、二〇一〇年八月二〇・二七日合併特大号から二〇一一年五月二〇日号まで、「週刊ポスト」にて連載した「糾弾 部落差別ハガキ自作自演事件はなぜ起きたか」を『どん底 部落差別自作自演事件』と改題し刊行。

発表要旨】

フィクションとノンフィクションの境界――松本清張「『スチュワーデス殺し』論」と『黒い福音』

大塩 竜也

 本発表は、フィクションとノンフィクションの線引きをするものとは何かを解明していくことを目的とする。その際、一つの事件をフィクション、ノンフィクションの両手法を用いて描いていった松本清張の諸作に注目することは有効であろう。特に、清張がノンフィクション執筆を増していくきっかけとなった「『スチュワーデス殺し』論」(昭和三四年)は直後に小説として発表された『黒い福音』(昭和三四~三五年)との関係から検討材料に富み、これまでも両者を比較する論考は行われてきた。しかし、従来は『黒い福音』に比重が置かれ、何が「『スチュワーデス殺し』論」をノンフィクションたらしめ、何が『黒い福音』を小説だと決定していったのかについてはあまり触れられなかった。そこで本発表ではノンフィクション(またはフィクション)として読ませる出版戦略と、ノンフィクション(またはフィクション)として読む受容の関係を整理し、両者の境界線となるものが何かを明らかにしていく。

(日本体育大学非常勤講師)

「小説家」の「ルポルタージュ」――中上健次『紀州 木の国・根の国物語』

須賀 真以子

 『紀州 木の国・根の国物語』は、中上健次の唯一の「ルポルタージュ」であるが、ルポルタージュというジャンルに必ずしも当てはまらない異質性が従来より指摘されてきた。本発表では、「小説家」という自己規定を絶えず繰り返す作中の記述から、作中に頻出する「事実、事物」という言葉が、「小説家」にとっての「事実、事物」であることに着目したい。すなわち、作中の「事実、事物」は、「小説家」が「事実、事物」を捉えようとする行為そのもの、思考し、逡巡する過程そのものを含んでおり、それは時に客観的事実や現実とは異なる相貌を見せ、他者の「事実」と食い違う。「小説家の眼」というメタレベルの枠組を、描かれる対象である「事実、事物」に組み入れた「ルポルタージュ」として、『紀州 木の国・根の国物語』は、どのような「事実、事物」を読み手に提示するのか。「語り書く」という手法の解明と併せ、書記行為の自己言及性という観点から論じたい。

(お茶の水女子大学大学院生)

『無名』と名づけること――沢木耕太郎と「私小説」

山内 洋

かつて篠田一士が『ノンフィクションの言語』の中で、これまで日本に読むべきノンフィクション作品が少なかったのは「いわゆる〈私小説〉、あるいは〈私小説〉まがいの現実模写を事とする小説が日本の常道になっていた」ために、「〈私小説〉的ノゾキ趣味が跋扈し、小説とも、ノンフィクションともつかない、得体の知れない読み物が書かれてきた」からだという意味のことを語ったことがある。一方で慧眼の篠田は『テロルの決算』を書き上げたばかりの沢木をいちはやく称揚していた。だとすればその後も絶えず「ノンフィクション」の新しい可能性を拓き続けた沢木が、やがて『檀』や『血の味』を著し、そして少なくとも外見上は「私小説」「心境小説」によく似た『無名』にたどり着いたことは、篠田ならずともきわめて興味深い事実である。本発表は沢木耕太郎の「超越的なもの」への飢餓感とその抑制とを手がかりに、この作家の帰趨の必然性を解き明かしながら、「ノンフィクション」「私小説」とそれぞれ呼称される表現方法の初志及び理想にも、あらためて幾何か触れ得る機会となることを目指したい。

(大正大学文学部人文学科特命准教授)