2023(令和5)年度 昭和文学会 春季大会のお知らせ

*本大会は、対面を主とするハイフレックス方式(講演、研究発表、シンポジウムは対面会場(立教大学)で行い、感染拡大防止の観点から、視聴者は対面またはリモートで参加する)での開催を予定しております。また感染の拡大状況により、対面での開催が困難となりました場合は、オンラインのみの開催となります。

※「ZOOMウェビナー」によるリモート参加には事前登録が必要です。開催概要、アクセスなどはこちらを、オンラインでの事前登録についてはこちらをご参照ください。

日時 2023年6月17日(土)13:30~17:40

会 場  立教大学 池袋キャンパス九号館二階大教室

(なお、幹事会を6月17日(土)12時(正午)より立教大学 9号館2階 9204教室にて「対面」のみで開催致します。)

特集:〈語り〉の交錯-話芸と文学-

【開会の辞】

金子明雄(立教大学文学部長)

【口演と対談】
浪花節更紗(正岡容 原作)

玉川奈々福氏(浪曲師)

沢村まみ氏(曲師)

「浪曲・文学・語り芸」

鈴木彩(聞き手)

【研究発表】
安藤鶴夫はいかにして落語を文学たらしめたのか

宮信明

「工夫に富める紳士」の話芸――織田作之助「猿飛佐助」における洒落の効能――

尾崎名津子

司会 杉本裕樹・仲井眞建一

【シンポジウム】

司会 加藤達彦

【閉会の辞】

佐藤 秀明(代表幹事)

【総会】

17:45~

 

【企画趣旨】

日本の文化史において落語や講談、浪曲といった「話芸」が果たしてきた役割は極めて大きい。しかし、そうした話芸が近代以降の「文学」にどのように交接し、相互にいかなる影響をもたらしたのか――その関係性を探る研究は、時おり三遊亭円朝の落語と明治期の言文一致運動の成り行きが指摘されるものの、未だ十全になされているとは言い難い。

話芸と文学の関係を考察する観点として、わかり易いところでは話芸そのものを扱った小説や評論、あるいは直接/間接に話芸に関与し、何らかの影響を受けた作家といったことが挙げられるだろう。たとえば、明治末期~大正期にかけて「速記講談」から「書き講談」の手法を定着させた『立川文庫』や「浪花節」とともに「新講談」の路線を前面に打ち出した『講談倶楽部』は、当時、子どもから大人まで幅広い世代に好評を博したが、こうした事態はもはや話芸を児童文学/大衆文学として見ることも可能であり、昭和初年代から活躍した書き手のなかには少年期にこれらの読み物に夢中になり、無意識裡に影響を受けていた者も少なくないはずである。さらに全国7局のラジオ中継放送網が完成した昭和初期、当時の調査によると、「演芸・演劇」部門で聴取者が好む番組は一位が落語・漫談で、二位が僅差で浪花節、三位がラジオドラマ・風景、四位が映画劇・映画物語、そして五位が講談、六位が歌舞伎劇だったという。これらはいずれも「和楽」や「洋楽」部門、「スポーツ競技実況」と比較しても圧倒的な人気を集めていた。

メディアの変遷に伴い、多岐にわたる話芸と文学の影響関係を探るにあたって、本企画では可能な限り〈語り〉の問題に注目してみたい。古くから伝わる話芸と文学には共通する題材やテーマも多いが、その特徴は〈内容〉よりもむしろ〈語り〉の違いとして顕現されるのではないだろうか。そもそも一括りに「話芸」と呼ばれる落語や講談・浪曲にしても、落語は「話す」/講談は「読む」/浪曲は「語る」と区別されるように、〈語り〉の差異を指摘することができる。話芸は大衆に受けたネタを共有しつつ、だからこそ各々が発展しながら〈語り〉における個別の特性を醸成していったと考えられる。複雑に絡み合う〈語り〉のなかで進展を遂げてゆく多種多様な話芸の共通点と相違点は、いったいどこにあるのか。また、それらは文学といかなる影響関係を築いているのか。

本大会では浪曲師・玉川奈々福氏をお招きして浪曲の実演を披露していただきながら、まずは話芸を身近に体験したのち、対談を交えて浪曲の特性について伺う予定である。そしてその上で具体的な諸テクストを取り上げながら、研究発表とシンポジウムを通じて「話し言葉」による話芸の文化的潮流が「書き言葉」としての文学に移行していった際、双方にどのような変容がもたらされたのか――交錯する〈語り〉の実状を紐解きながら、個々の事例に即して追究してみたい。

 

【口演・対談 出演者紹介】

玉川奈々福(たまがわ・ななふく)

神奈川県横浜市出身。1995年、曲師(三味線弾き)として二代目玉川福太郎に入門。師匠の勧めにより浪曲も覚え、2001年浪曲初舞台。2006年、美穂子改め玉川奈々福として名披露目。さまざまな浪曲イベントをプロデュースする他、自作の新作浪曲も手掛け、他ジャンルの芸能・音楽との交流も多岐にわたって行う。平成30年度文化庁文化交流使として、イタリア、スロベニア、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、キルギス、ウズベキスタンの七か国で公演を行い、中国、韓国でも公演。第十一回伊丹十三賞受賞。

 

【発表者要旨】

安藤鶴夫はいかにして落語を文学たらしめたのか

宮信明(みや・のぶあき)

桂米朝は「落語は文学か」との問いに、「むしろ、文学の範囲にいれてもらわない方がよいと思うのです」と答えている。「ちょっとちがうものなんだ……と言いたいのかもしれません」(『落語と私』)と。そこには落語を文学の尺度ではかろうとする価値観への反発と落語家としての矜持が透けて見える。だが、実際には、三遊亭円朝の速記本や立川文庫をはじめ、これまでにも話芸を文学と目する事例がなかったわけではない。とすれば、問われるべきは、それらはいかにして文学たりえているのか、ということではないだろうか。

本発表では、このような問題関心のもと、安藤鶴夫の文業について検討する。例えば「芸術的な効果から省略した部分もあり、また文学的な効果を考えて、ぼく自身がかくありたいと思う創意による演出も加えてある」(創元社版『落語鑑賞』)とされる『落語鑑賞』の「文学な効果」とは何か。また、「戦後のある時期、古典落語ほど、はげしい危機にさらされた芸はほかになかった」(『わが落語鑑賞』)と述べるように、安藤にとって、それは存亡の機に立たされていた古典落語を生きながらえさせるための方策でもあった。安藤鶴夫はいかにして落語を文学たらしめたのか、当時の落語界の動静にも注目しつつ、考察する。(京都芸術大学)

 

「工夫に富める紳士」の話芸――織田作之助「猿飛佐助」における洒落の効能

尾崎名津子(おざき・なつこ)

 三谷幸喜は「真田丸」(二〇一六年)で「佐助」に苗字を付さなかった。そこには猿飛佐助との差異化が目論まれていたらしい――という程度に、今日においても猿飛佐助の形象は、虚構の強度や創意をはかる基準の一つたり得ている。佐助は書き講談の『立川文庫』によってイメージが確立され、その後、映画や児童向けの読み物を中心に幾度も再生産されることになる。一九四五年一月に猿飛佐助は織田作之助によってラジオドラマ化され、同年二・三月には小説化もされた。川島雄三に宛てた書簡の中で、「工夫に富める紳士」を自称する織田は、佐助を「アバタの怪詩人」として作り変えた旨を繰り返し述べていた。しかし、その「工夫」は人物造形や物語内容のみにとどまらず、〈語り〉にも顕現している。本発表では、明治期から昭和戦前期における話芸の動向や、上方の話芸の文化を視野に含めつつ、織田の「猿飛佐助」における多様な洒落に着目する。ともすると筋を運ぶ際にノイズになり得る洒落の連鎖が、小説をいかに、またはどの程度統御しているのか、あるいは逆に、いかなる混沌をもたらしているのかといったことを、若干でも明らかにできればと考えている。

(立教大学)