【報告】昭和文学会第37回研究集会

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昭和文学会第37回研究集会 発表要旨

日本近代文学研究と戦争–片岡良一と「近代的自我史観」の来歴–

笹沼俊暁

本発表では、アカデミズムにおける本格的な日本近代文学研究の草わけの一人と目される文学史家・片岡良一の思想を中心的にとりあげて論ずる。一九二〇年代末頃から片岡が展開した文学史の枠組は、「個人主義」にもとづいた「近代的」な文学の確立と展開のストーリーを描き出すものだった。それは戦後になると、いわゆる「近代的自我史観」の原型を確立したものとして、戦後民主主義の思想的枠組のなかで高く評価されることになる。その文学史の図式は、さまざまに形を変え屈折しながらも継続し、「国民文学論」と並んで長年にわたり戦後の日本近代文学研究に影響を与え呪縛しつづけることとなった。
片岡良一は、現在では近代文学を専門とする批評家や研究者の間ですらほとんど読まれなくなっているが、その「近代主義」的なスタンスから、今でもリベラリストとしての漠然としたイメージを伴っているように思われる。そうした見方は、けっして誤っているわけではない。しかし、本発表では、片岡良一の近代主義的・個人主義的な文学史叙述が、戦時期には、論理の形としては戦時動員に対する翼賛言説とクロスしていた点を重視する。そのことは、戦後の日本近代文学研究の中心的な問題となった近代的自我史観のかかえる本質的な問題性をあらわしていたと考えられる。ポスト冷戦、ポスト近代の現在、かつての日本近代文学研究を、戦争との関係から改めて見直さなければならないと思われる。

谷崎潤一郎『春琴抄』 春琴と佐助の子供はなぜ必要であったか
–佐助の姿に「我」と「父」と「弟(得三)」を重ねて

藤原智子

谷崎潤一郎『春琴抄』(『中央公論』昭和八年六月号初出)における表層的特長としては、佐助春琴とがあくまでも師弟関係を貫いたことの強調が挙げられる。この設定のもと、指摘されることは少ないが、二人の間には三男一女・計四人の子が生じている。一女は分娩後に死亡したが、三男とも里子に出され生存していたことも記される。
谷崎は二人の間に「子」を誕生させ、その存在を作中に示しながら強硬に排除させ、それに二人を敢えて関わらせないという段取りを踏んだ。今まで母親としての春琴、父親としての佐助が論じられることがなかったことの要因ではないかと推察される。この「子」こそが、佐助の深層たる自己実現また『春琴抄』のキーを握るものではないかと思われる。
テクストの主調をなす悠長な文体に対し、周知の通り、四人の「子」が生まれたことを見過ごす読み手もあるほど「子」に関しての記述は不自然に少ない。バランス的な違和感から推察しても意識されて工作されたものと理解する。明らかにこの部分に作者の意識が向かっていることの証左である。 この語り捨てられた「里子」の背負う運命も意味深い暗示コードである。当時、里子に出されずにすんだ谷崎と、次弟精二氏はすでに、それぞれ作家としてまた研究者(早稲田大学文学部教授 作家・ポオ等の翻訳者)として社会的成功を得ていた。実家を捨てた形で薬種問屋に生涯奉公し春琴に仕える佐助の姿は、著者自身の夢であるとともに、幼少時、繁栄を極める生家で両親を失ったために没落し番頭筋の谷崎家に引き取られ、ことごとく商売に失敗し続け家付き娘の母に尽くしその死後は佐助同様後添えさえとらなかった父、そして、谷崎家から薬種問屋に里子に出され、養父からも奉公に出され不遇を転々とし独りものであった弟・得三氏に重なる。幸運にも実の親に育てられ現在成功している自分らと、他人の下で遠慮をしながら不本意に生きた彼等の境遇とを思い、物語の中で思う存分に人生を生きさせてやりたかったのではないだろうか。(関西学院大学大学院研究員)

太宰治「貧の意地」「遊興戒」試論
–真山青果「小判壱拾壱両」「西鶴置土産」を中心に–

松田忍

太宰治『新釈諸国噺』(昭20・1 生活社)の執筆参考資料について、夫人の津島美知子氏は『西鶴全集』(全11巻 大15~昭3 日本古典全集刊行会)の「あちこち」から素材を集めて作中に嵌め込んでいると証言している(昭53・5『回想の太宰治』)。その言説に基づき、現在『西鶴全集』との比較研究が主流である。このような中、木村小夜氏は「新釈諸国噺論「貧の意地」」の注記(平13・2『太宰治翻案作品論』)において『西鶴全集』以外の資料として真山青果の戯曲「小判拾壱両」(大15・5「演劇新潮」)に注目し、「意地の強固さに関しては、太宰の描く原田にむしろ近い。」と太宰と真山の類似を指摘された。だが氏は最終的にこの類似よりむしろ相違する箇所の方に重きを置かれた為、真山青果「小判拾壱両」は太宰治「貧の意地」の執筆参考資料であるとは言及されなかった。
しかし「小判拾壱両」と「貧の意地」を再検証した所、「意地の強固さ」の部分以外にも文章の類似する箇所は管見した範囲で一八箇所あった。また「小判拾壱両」が所収されている『真山青果全集 第三巻』(昭15・12 大日本雄弁会講談社)には真山青果「西鶴置土産」(大12・4「婦人公論」)が所収されており、この「西鶴置土産」と太宰治「遊興戒」(昭19・8「満州良男」)を検証してみた所、ここでも文章の類似する箇所が管見した範囲で二二箇所あった。従って太宰治「貧の意地」「遊興戒」の第二の執筆参考資料は真山青果「小判拾壱両」「西鶴置土産」ではなかろうか。本発表では「貧の意地」と「小判拾壱両」、「遊興戒」と「西鶴置土産」との比較によりテキストの構造を探ってみたい。(佛教大学大学院)

吉本隆明の現代論

綾目広治

一九八○年代の反核運動を〈スターリニズム的である〉と批判していた頃や、ポストモダニズムの風潮に足を掬われてか、〈高度資本主義を肯定しなければならない〉と語っていた一九八○年代後半から九○年代にかけての吉本隆明は、かつて〈戦後派文学は戦争傍観者の文学である〉と語っていた言説と同様に、ピントがずれているとしか思えなかったが、『超「戦争論」』(二○○二)や『「ならずもの国家」異論』(二○○四)などの昨今の発言では、現代社会に対する吉本隆明の判断力、批判力は回復しているように見受けられる。
それらの論説には、〈国家が行なう戦争はテロよりも「大規模な犯罪」であり、国民は国家の言うことを聞かなくてもいい〉という発言があったりするが、それは、いわば〈公〉の論理ではなく〈私〉の論理を最優先させる、批評家としての出発時から一貫して変わらない吉本隆明の姿勢とも言える。他方、資本主義に対しては柔軟な見方をするところもあり、これはあのポストモダニズム全盛時代の中の吉本隆明と連続しているというふうに考えることもできる。
本発表では、一九九○年代以降の吉本隆明の批評活動を鑑みることを通して、彼の現代の社会や思想についての認識とその妥当性を考えてみたい。それとともに、吉本隆明の批評さらには思想を、戦後六○年の中でどう評価し位置づけるべきかという問題にも言及してみたい。(ノートルダム清心女子大学)