【報告】昭和文学会第38回研究集会

研究集会終了後、「蔵の桜(リンク先は「ぐるなび」による紹介ページです)」(三軒茶屋駅徒歩1分)にて懇親会(会費5,000円)を予定しておりますので、皆様ふるってご参加下さい。尚、懇親会の予約は不要、当日受け付けにてお申し込み下さい。

[昭和女子大学へのアクセス] [キャンパスマップ]
(別ウインドウで昭和女子大学のサイトへリンクします)

発表要旨

戯曲における文体 続–戦後演劇の試み二、三–

西村博子

役者のための台本ではない、"戯曲"を書くということが始まってからすでに一三〇年近い年月が過ぎた。他とは異なる–対立したり疎外されたりしている–自の認識、それを戯曲という新しい形式で表現せずにはいられない人々から始まった営為であった。
したがって戯曲における言葉、それからなる構造は最初、創る人の伝えたいこと–主題や思想–を直接担い、ひたすらその伝達に奉仕していたように思われる。写実から社会科学による現実把握へ、方法は深化しても言葉における事情は同じだった。しかし、一九二〇年代に入って、人の話す言葉の機能に着目するごく少数の創り手たちがあらわれるようになった。なんでもない日常が戯曲に採りあげられるようになってからであった。
言葉の、意味の伝達だけではない他の働きやその不可能性、あるいは音の面白さや連想力などが認知され、そうした実験が意識的になされるようになったのはようやく一九六〇年代以後のことであったと言える。別役実、井上ひさし、野田秀樹、松本雄吉、天野天街の場合を瞥見したい。九〇年代に盛行した「静かな劇」の今にも言及できたら幸いである。(日本近代演劇史研究会代表)

このページのトップに戻る ▲

演劇における「言文一致」戦後新劇を中心に

日比野啓

書きことばを話しことばに近づけることが目的であった言文一致運動が、現実には規範となる話しことばが確固として存在していなかったがゆえに、その過程で近代日本における話しことばを再定義・再編成するものになったことは文学史上の常識といってよいだろう。一方、新劇は劇作家の文体に俳優の「物言ふ術」(岸田国士)を従わせようとすることで、一九六〇年代後半のアングラ演劇勃興期に「肉体の叛乱」(土方巽)をまねくことになる。これら二つの逆説を抱え込んでしばらくのたうち回ったあげく立往生を遂げたのが戦後新劇であったというのが発表者の提起する仮説である。この仮説を証明することは容易ではないのだが、ひとまず本発表では、新劇演技論の二重底のイデオロギーと発表者が呼んでいるもの(自然主義的演技と「型」の演技)に支えられることで、石川淳・花田清輝・安部公房ら小説家の書く戯曲が上演可能なものとして認識されていた戦後新劇のもっとも幸福な時代に焦点をあてることにしたい。演劇における「言文一致」は、小説においてと同様、いつでもフィクションとして機能しているわけだが、フィクショナルなものに実体があるかのように真剣に信じられた時代の認識論的布置を明らかにできればよいと考えている。(成蹊大学)

「マダム・バタフライ」の想像力–野田秀樹『パンドラの鐘』試論

嶋田直哉

プッチーニ『蝶々夫人』といえば、「束の間の愛情を求めたアメリカ軍人との仮りそめの結婚を、真実の愛と信じて待ちつづけた日本人娘の悲劇をテーマにしたもの」(石戸谷結子)として受容されている。そこにはあからさまなまでに、支配する西洋(男性)と従順な日本(女性)といった構図が見て取れる。問題はこのようなオリエンタリズム的なまなざしがどのように受容され、変形していったのかということだろう。一九九九年に上演された野田秀樹作・演出『パンドラの鐘』はそのような構図に意識的に依拠しながらも、「国家とその成り立ちをめぐる物語」(長谷部浩)として考えることが可能である。このような分析の際補助線として島田雅彦『無限カノン』3部作と同じく島田の台本による歌劇『Jr.バタフライ』をあわせて考える。これらを通じて戦後の日本-アメリカ、ポストコロニアル、ナショナリズムなど野田秀樹の作品が抱える問題=可能性に迫っていきたい。(フェリス女学院中高)

私にとっての戯曲と小説の違い

岡田利規

演劇と小説。私にとっては今のところ、どちらの表現形式も他方の表現形式に対して多くのサジェスチョンを投げかけてくれる。たがいに向けて、それぞれについての思考を励起しあうもの。その私の中のダイナミズムを、なるだけ体系めいたルックスとなるよう努めながらお話しできればと思う。具体的には、以下の二点について主に話すことになるだろう。一点目は、二つの形式において言葉はそれぞれどこに向けて作用するために書かれるか、ということである。一言で言えば、演劇の言葉は俳優の身体をダンスさせるために書かれているが、小説の言葉は、小説じたいひとつのダンスでなければいけない。二点目は、それぞれの形式において陥穽となりやすい言葉のフェティシズムの問題について。私の書く「超リアル日本語」による上演テキスト(=台本)は、文芸作品(=戯曲)として提示されると、どうしても文体のフェティッシュとしての側面が前景化されてしまうが、そうしたフェティシズムは文学的本質から遠いものだと考えている。小説版『三月の5日間』において「超リアル日本語」的文体を基本的には用いなかった理由もそこにある。(劇作家)