2015(平成27)年度 第57回研究集会

2015(平成27)年度 昭和文学会 第57回研究集会
日時 12月13日(日)午後1時より
会場 早稲田大学 早稲田キャンパス 14号館501教室
(〒169-8050 東京都新宿区西早稲田1-6-1)
 
 
 
開会の辞

エイドリアン・ピニングトン(国際教養学術院院長)

 

 
【研究発表】

川端康成「美しい旅」――正編と続編の断層――       

堀内 京

 
戦時下における林房雄の小説

川崎 秋光

 
『真空地帯』再読――意味生成の場としての兵営――

高野 真理子

 
大江健三郎『水死』における語りの構造――「僕」から「私」への書き直しについて

池沢 充弘

 

司会  西田 一豊・山口 政幸・中村 ともえ・滝口 明祥

 
※ 終了後、UNI・SHOP&CAFE125にて懇親会を予定しております。予約は不要、当日受付にてお申し込み下さい。

 
 
【発表要旨】
川端康成「美しい旅」――正編と続編の断層――

堀内 京(千葉大学大学院)

  川端康成は、「美しい旅」を1939年7月から41年4月にかけて「少女の友」に連載した。また、同年9月から42年10月には続編を同雑誌に発表した。「美しい旅」は、盲聾唖の少女花子を中心に展開される。一方、続編では花子の存在は後退し、花子の教育を司る予定のある聾学校教員、月岡先生の満州紀行に関する記述が増加し、未完の作品として閉じられる。続編は、「美しい旅」を単行本化する際にも収録されず、川端の存命中には一度も刊本に収められることはなかった。本発表は、続編部分を再評価することで、続編が一定期間捨象されていた意味を考えたい。加えて、これまで「少女の友」という初出誌の特性から、作中の少女たちが注目されてきた本作品において、花子に盲聾唖教育をほどこそうと奮闘し、花子の兄のような役割を果たす達男に着目することで、小説の構造を捉え直すことも試みたい。                                                          
 
戦時下における林房雄の小説
川崎 秋光(首都大学東京大学院)

  極端な転向者として知られる林房雄は戦後、小田切秀雄ら左派系の文人によって非難されたが、どのような小説を著したのかは注目されてこなかった。本発表では代表作『青年』の続編でありながら、第2部までで中絶したと思われてきた『壮年』の第3部(『満州日日新聞』1941年3月11日~11月27日)、その次に書かれたものの、張作霖爆殺事件の描き方から初版が出版禁止となった『青年の国』(『満州日日新聞』1942年2月24日~1943年1月18日)、戦後も刊行されることのなかった『剣と詩―廿年後の大東亜』(『毎日新聞』1944年8月19日~1945年2月15日)といった作品を通し、林にとっての転向と小説に表れたその影響を考察する。「転向者の権威」(『文学時標』松本正雄1946)と呼ばれた林だが、アジア各地を訪問し取材するなど、これまでの評価では顧みられなかった一面を見ていきたい。

 
 
『真空地帯』再読――意味生成の場としての兵営――

高野 真理子(カリフォルニア大学大学院)

  本発表では野間宏の『真空地帯』(1952、河出書房)について、兵士間のやりとりにおける身ぶり・発話の解釈の多義性に注目しながら、兵営における意味と人間関係の生成プロセスを追った作品として再読を試みる。本作はこれまで権力への絶対的服従が強いられる兵営内部の様子を克明に描いた作品として理解されており、秘かに厭戦思想を抱く曽田の独白や、木谷の暴力的抵抗に着目した軍隊批判の契機がその評価を分けて来た。このような読解は発表当時佐々木基一や大西巨人らによって設定されて以来、今日まで温存されている。本発表では意味生成に焦点を当てることで、『真空地帯』が軍隊批判に限らず集団における意味と関係の社会的生成を広く射程に入れた問題意識に貫かれていることを明らかにしたい。こうした『真空地帯』再読は、従来「文学」から政治的な大衆路線への転換として理解されてきた野間の1940年代から1950年代にかけての活動や関心を結びつける契機になるだろう。

 
 
大江健三郎『水死』における語りの構造――「僕」から「私」への書き直しについて

池沢 充弘(法政大学大学院)

  2000年代以降、大江健三郎は自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)」と呼ぶ一連の作品を通して、自身の過去の著作の批判的な「読み直し・書き直し」を試み、語りや描写といった形式的側面でも意識的な変革を行ったことで知られる。しかし、三人称の「おかしな二人組(スゥード・カップル)」3部作を経て用いられるに至った「私」を主語とする一人称の語りに関しては、従来の「僕」を主語とする一人称の語りとの相違や、何故「僕」ではなく「私」なのか等、基本的な問題についてわからない部分が多い。 そこで本発表では、特に『水死』(2009)に着目し、その一人称の語りの構造を、『父よ、あなたはどこへ行くのか?』(1968)『みずから我が涙をぬぐいたまう日』(1971)との比較を通して分析する。これらは父親の謎、蹶起、母親との確執など共通する主題が多く、さらに各々大江自身の「方法論」的拘りが顕著な作品群である。これらの比較を通して「後期の仕事(レイト・ワーク)」の語りの一側面を明らかにするのが本発表の目的である

     
 
 
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