2025(令和7)年度 昭和文学会 第76回研究集会の詳細
※本研究集会の開催にあたり、障害者差別解消法への対応として、情報保障等の合理的配慮の提供を行います。
詳細についてはこちらからご確認ください。
※「ZOOMウェビナー」によるリモート参加には事前登録が必要です。
オンラインでの事前登録は5月10日(土)ごろ受付を開始します。
日時 2025年5月17日(土) 13:30~18:00
会場 駒澤大学 駒沢キャンパス 種月館(3号館)211教場
(〒154-8525 東京都世田谷区駒沢1-23-1)
アクセスについてはこちらをご参照ください。
特集 〈遊園地〉と文学
【開会の辞】
倉田 容子(駒澤大学文学部教授)
【基調講演】
遊園地という「問い」にむけて——アメリカ文学・文化研究からのアプローチ
坪野 圭介(成城大学)
司会 近藤 史織
【基調報告】
稲垣足穂『ヰタ・マキニカリス』における空間の遊戯
高木 彬(龍谷大学)
司会 杵渕 由香
浅草という〈遊園地〉に生きる人々
能地 克宜(明治大学)
司会 宮澤 桃子
宮崎駿とナショナル・トラスト
米村 みゆき(専修大学)
司会 山田 昭子
【シンポジウム】
司会 近藤 史織・木谷 真紀子
【閉会の辞】
代表幹事 金子 明雄
※閉会後、学内において懇親会を設ける予定です。
【企画趣旨】
〈遊園地〉という言葉から、思い浮かべるのはどのような光景だろうか。観覧車やメリーゴーランド、ジェットコースターなどの遊具の場合もあれば、温泉や水族館なども併設された一体型の施設であるかもしれない。近年では、ジブリパーク(2022)、ハリー・ポッタースタジオツアー(2023)、東京ディズニーシーファンタジースプリングス(2024)など、毎年のように大規模なテーマパークの開発が進んでいる。特定のテーマに貫かれたテーマパークは遊園地とは区別されるが、現代では馴染み深いものとなり、遊園地という言葉からテーマパークが想起されることもあるだろう。また、西武園ゆうえんちの改装が話題を集めたように、ノスタルジー漂う空間として遊園地の姿を思い浮かべることもあるかもしれない。以上のように、〈遊園地〉という言葉によって浮かぶ光景はさまざまなのではないかと思われる。
しかし、それらの〈遊園地〉にはある特定のイメージも付き纏う。鮮やかな電灯で彩られた空間、身体感覚を揺さぶる動き、鳴り響く愉快な音楽。それらによって生み出されるのは非日常的な体験だろう。共有された〈遊園地〉のイメージは、特定のアトラクションやキャラクターの存在しない空間を時に〈遊園地〉らしいものとして見せていく。札幌や大阪といった都市に設置された観覧車は、都市景観そのものを非日常的空間として現出する。人々が整然と行動する大都市の交差点が観光客の人気を集めるのも、日常生活の中に〈遊園地〉らしさが生じる例と言えよう。小説や漫画の舞台を巡って物語の世界に浸る、いわゆる「聖地巡礼」も、テーマパークという〈遊園地〉の世界観に没入する感覚と通じる。〈遊園地〉は実在するレジャー施設を超えて、日常の至る所に見出されるものではないだろうか。
都市と〈遊園地〉の関係について、坪野圭介『遊園地と都市文学 アメリカン・メトロポリスのモダニティ』(2024)は、カリフォルニアのディズニーランド誕生以前のアメリカ文学における「「遊園地的」と呼びうる性質」を検証した。〈遊園地〉という場所が直接的に描かれずとも、都市の姿を描いた文学作品の中に「遊園地的」な特色が見出せるのではないかという仮説から考察されている。〈遊園地〉を広く「遊園地的」特色として捉え、それがいかに文学の中に波及したかを視点とするならば、日本文学には日本ならではの特色を見出すことができるのではないか。外国から輸入された近年のテーマパークと日本最古の遊園地である浅草花やしきでは、その様相に明らかな違いが見受けられる。
日本独自の「遊園地的」特色は近代文学の中にいかに描かれているのか。そして、現代文学とはどのように関わり合っていくものであるのか。毎年のように様々な〈遊園地〉が新設される現在に、日本における〈遊園地〉と文学の関係性を考えてみたい。
【講演者紹介】
坪野 圭介(ツボノ・ケイスケ)
成城大学文芸学部准教授。博士(文学)。専門はアメリカ文学・文化。著書に『遊園地と都市文学——アメリカン・メトロポリスのモダニティ』(小鳥遊書房、2024)。共訳書に、ホイト・ロング『数の値打ち——グローバル情報化時代に日本文学を読む』(フィルムアート社、2023年)、エミリー・アプター『翻訳地帯——新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(慶應義塾大学出版会、2018)など。
【発表要旨】
遊園地という「問い」にむけて——アメリカ文学・文化研究からのアプローチ
坪野 圭介(ツボノ・ケイスケ)
遊園地は「問い」に満ちている。それは現代社会を映し出す鏡だろうか。過去への郷愁の対象だろうか。未来のビジョンの実験場だろうか。あるいは、ユートピアなのか、ディストピアなのか。こうした「問い」を換言すると、遊園地が孕む想像力とはどのようなものか、という形にまとめられるだろう。本発表では、文学研究・文化研究の視座から、この想像力を把捉するためのアプローチを整理してみたい。
具体的には、遊園地が誕生した20世紀転換期アメリカのイラストレーションを出発点とし、21世紀の小説に描かれたテーマパークまでを概観しながら、文学作品がどのような「装置」としてこの施設を利用してきたかを検証する。現在のテーマパークがグローバルな娯楽となっているように、そこにはアメリカ固有の歴史・文化を越えた「普遍的」な性質も存在するだろう。そこにはまた、各国文学の枠組みを越えて遊園地の想像力を検討する契機が含まれているはずである。
稲垣足穂『ヰタ・マキニカリス』における空間の遊戯
高木 彬(タカギ・アキラ)
路面電車で下る神戸の坂道はまるで「ウオターシユート」だ。──稲垣足穂「星を売る店」(1923)における「私」のこの認識の背景には、大阪・天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会(1903)がある。殖産興業を目的とするパビリオン群に並置された日本初の「飛艇戯(ウオーターシユート)」や「快回機(メリーゴーラウンド)」は、無目的な運動、落下、回転、高速移動といった新たな空間経験を、遊戯機械として象るものだった。それは、その跡地に移植された和製コニーアイランド=新世界ルナパーク(1912)において全面化する。本報告では、この「星を売る店」のほか、「天体嗜好症」(1926)や「緑色の円筒」(1927)といった短篇集『ヰタ・マキニカリス』(1948)所収のテクストが、こうした実際の遊戯空間をモチーフとしつつも、そこに象られた「空間の遊戯」(ルイ・マラン)に踏みとどまろうとしていたことを明らかにする。
浅草という〈遊園地〉に生きる人々
能地 克宜(ノウジ・カツノリ)
日本最古の遊園地と言われ、現在も営業を続けている花やしきが「花屋敷」として開園したのは一八五三年である。その後も、浅草には花やしきの他にルナパーク(一九一〇年)、浅草松屋スポーツランド(一九三一年)、浅草楽天地スポーツランド(一九五四年)と、三つの遊園地が開園した。「日本の遊園地のルーツは、浅草花屋敷にある」とする中藤保則は、これらの遊園地を有する「浅草という街自体」が「ひとつ巨大な遊園地である」と述べ(『遊園地の文化史』自由現代社、一九七九年)、橋爪紳也は中藤の著書に基づき、「「公園」と「遊園地」とは、相互に補完し、依拠しあっている存在とみなすことで、はじめて定義できる概念」だと言う(『日本の遊園地』講談社、二〇〇〇年)。本報告では、これらの指摘を踏まえ、浅草公園一帯を一つの〈遊園地〉と捉え、そこで生活し働く人々を描いた小説を主な分析対象として、浅草という街の〈遊園地〉的特質について考察してみたい。
宮崎駿とナショナル・トラスト
米村 みゆき(ヨネムラ・ミユキ)
宮崎駿による映画『千と千尋の神隠し』(2001年)は、金熊賞およびオスカーを受賞し、国外でも宮崎駿の名前を広める契機となった作品で、国内外では一定の研究の蓄積がある。しかし、その冒頭部分に、テーマパークの残骸が描かれていることは、ほとんど注目されていない。同作は、10歳の主人公の少女が、両親と共に引っ越し先の新しい家へ向かう途中で、霊々(かみがみ)が休憩する世界へ迷い込む話だが、最初に迷い込んだ建物はテーマパークの残骸であった。宮崎は自作映画で、宮沢賢治作品を「引用」することがあるが、この場面は『注文の多い料理店』の西洋料理店山猫軒を通して「放恣な階級」への「反感」を描出したことがわかる。またこの建物は、当初の映画企画であった柏葉幸子『霧のむこうのふしぎな町』にも存在しない。テーマパークの残骸として設定されている点は、じつは、宮崎映画に底流する確固たる一つの系譜――ナショナル・トラストの問題系を明瞭化させる。