【お知らせ】第51回 昭和文学会 研究集会

2012(平成24)年度
第51回 昭和文学会 研究集会
会場 慶應義塾大学(三田キャンパス) 西校舎1階513教室
〒 108―8345 東京都港区三田2―15―45
日時 12月15日(土)午後2時より

【研究発表】
〈共に〉あるということ
――宮澤賢治「土神ときつね」論
村山 龍

『詩歌翼賛』第二輯と「雨ニモマケズ」
――総動員体制下における〈宮沢賢治〉の価値をめぐって
構 大樹

想像/創造される「中国」
――村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」論――
柿﨑 隆宏

司会 石川 偉子・土屋 聡

※ 研究集会終了後、懇親会を予定しております。今回は、会場校の慶應義塾大学にご協力いただき、気軽に参加しやすいかたちで開催致します。ふるってご参加ください。なお、懇親会のご予約は不要、当日受付にてお申し込み下さい。

【発表要旨】
〈共に〉あるということ
――宮澤賢治「土神ときつね」論
村山 龍

宮澤賢治「土神ときつね」は大正十二、三年頃に書かれたと考えられている生前未発表の作品である。一本の美しい樺の木をめぐる土神と狐の物語は近代と反近代の相克を示す寓話と読まれることが多い。確かに登場人物に付与された性格はテクストをアレゴリーとして読むことを可能とするだけの振幅を持つものであるし、原稿表紙に土神を「退職教授」、狐を「貧なる詩人」、樺の木を「村娘」とする賢治の推敲メモが残されていることもまた積極的にテクスト外のイメージを持ち込む要因となっている。しかし推敲メモを重視するならば「寓話よりも/蓋ろ(ママ)シナリオ風の/物語―」と書き込まれていることも無視してはならない。そこで本発表ではアレゴリーとして読む先行研究の成果を継承しつつも、テクストに含まれた要素とそれを語る語り手の方法との連関を探ることによって土神と狐、樺の木が構築している関係性を再考する。これによって彼らがその関係性に不満を持ちつつもなぜ離れられないのかを明らかにし、そうした状況が持ちうる意味について考察を加えていきたい。
(慶應義塾大学大学院生)

『詩歌翼賛』第二輯と「雨ニモマケズ」
――総動員体制下における〈宮沢賢治〉の価値をめぐって
構 大樹

大政翼賛会文化部編『詩歌翼賛』第二輯(目黒書店、一九四二)には宮沢賢治「雨ニモマケズ」が採録された。作者生前にはほとんど関心を向けられることがなかった賢治テクストは、ここにおいて国家的なお墨付きを得るまでに至ったのである。賢治受容史において無視することができない〝事件〟であると言える。従来、『詩歌翼賛』第二輯によって「雨ニモマケズ」を中心とする〈宮沢賢治〉イメージが広範囲に流布したとされている。しかし一方で、そこに採録されるという現象がなぜ生じたのか、という検討は未だ進んでいない。「雨ニモマケズ」あるいは〈宮沢賢治〉は何が焦点化されることで、総動員体制下に相応しいと見なされたのか。本発表では『詩歌翼賛』に期待された役割、その中での「雨ニモマケズ」の位相を確認し、次いでそれまでに形成された賢治テクストの価値を浮き彫りにすることで、『詩歌翼賛』と「雨ニモマケズ」が交差する際に働いた力学を解き明かしていきたい。
(東京学芸大学大学院生・日本学術振興会特別研究員)

想像/創造される「中国」
――村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」論――
柿﨑 隆宏

村上春樹の「中国行きのスロウ・ボート」は、「僕」が出会った在日の中国人に関する記憶が語られる作品である。枠物語の構造を備えた小説の末尾で、中国人との記憶を語ってきた「僕」は、「僕のための中国」、言わば想像上の「中国」を語り出す。本作の評価について、「僕」を日本、三人の中国人を中国とそれぞれの国家を暗喩的に表出する存在と見なす傾向がある。しかし「僕」が中国人との記憶を語る際、「僕」と対比するように他の日本人への言及がなされており、「僕」は他の日本人と異なる位置づけがなされていると考えられる。また物語終盤の「おい、ここは僕の場所でもない」(傍点原文)という独白を含意すれば、日本という共同体との問題へと接続され得ると考える。前述のような問題を孕む「僕」と、日本社会において他者的な存在である在日の中国人の双方に共通する日本との関係を考察し、その上で作品の結末部に描かれる「僕のための中国」を想像する行為から読み取れる問題について検討したい。
(九州大学大学院生)