【お知らせ】第49回昭和文学会研究集会

2011(平成23)年度

第四九回 昭和文学会 研究集会

会場 専修大学 神田キャンパス 七号館 3階 731教室

〒 101-8425 東京都 千代田区神田神保町 3-8

日時 12月17日(土)午後1時30分より

 

研究発表

 

中島敦「環礁―ミクロネシア巡島記抄―」論

――ステレオタイプな〈南洋〉表象との相剋――

杉岡 歩美

 

 

福永武彦「深淵」論

――主観的事実からうまれる同罪性――

稲垣 裕子

 

 

「精読者(リズール)」から「作家」へ

――三島由紀夫「花ざかりの森」論――

稲田 大貴

 

 

教化される感覚

――多和田葉子「犬婿入り」におけるローカリティ――

泉谷  瞬

 

 

司会 河合 恒・川原塚 瑞穂

 

 

※  研究集会終了後、懇親会を予定しております。今回は、会場の専修大学のご好意で構内に場所をご提供願い、より気軽に参加しやすいかたちで開催したく思っています。どうか皆さまふるってご参加ください。なお、懇親会の予約は不要、当日受付にてお申し込みください。

 

【発表要旨】

中島敦「環礁―ミクロネシア巡島記抄―」論──ステレオタイプな〈南洋〉表象との相剋──

杉岡 歩美

 中島敦生前最後の著作集『南島譚』(昭和十七年十一月十五日、今日の問題社)は、〈南洋〉を舞台にした「南島譚」や「環礁―ミクロネシア巡島記抄―」を中心とする十五作品を収めた短編集である。『南島譚』という書名は、今日の問題社の編集者、小川義信の手紙から、中島敦自身が決めたと推定できる。本発表では『南島譚』のうち、「環礁」の総題のもとに集められた作品を考察する。〈南洋〉における「私」の〈まなざし〉を規定づける小品『真昼』の作中で列挙される「ゴーガン」「ロティ」「メルヴィル」といった西洋人の視線が果たす役割、上野山清貢の洋画「サイパンにて」や安藤盛の流行歌など同時代に見られるステレオタイプな〈南洋〉表象の分析、中島の草稿や創作メモとの比較を通して、中島敦の〈南洋〉認識や創作の特色を明らかにしたい。

中島が〈南洋行〉で何を見出し、どのような作品を著したのか、その内実を検討する。

(同志社大学大学院生)

 

福永武彦「深淵」論──主観的事実からうまれる同罪性──

稲垣 裕子

 本発表は、福永武彦「深淵」(一九五四年)を中心に、戦後文学の表現方法の可能性について検討するものである。「深淵」は、作中人物の内的独白による回想形式から時間の再構成が試みられ、彼らの意識の流れを追う形で、物語が進行するという体裁をとる。

つまり、一組の男女の交情を、彼らの独白という形で交互に組み合せるため、初出時は全編が、女と男の主観的事実の提示にとどまり、客観的に何が起きたのか、或いは最終的にどのような結末に至ったのかは明示されなかった。ところが、単行本収録時には女が男に殺害され、その死体は遺棄されていた、という記事で結ばれる。

ただし、この記事が示す事実もまた、新聞記者から見た主観的事実に過ぎない。換言すれば女と男の独白さえ、それが本人にとっていかに真実であろうとも、客観的事実とは考え難いからだ。本発表では、福永の敬愛する森鴎外の翻訳小説「駆落」を新たに比較対象としつつ、一片の新聞記事によって生じた不条理な真相を窺う。同時に、男と女を取り巻く周囲の同罪性を明らかにし、最終的には福永の方法意識を問い直すものとしたい。

(大阪府立大学大学院生)

 

「精読者(リズール)」から「作家」へ──三島由紀夫「花ざかりの森」論──

稲田 大貴

 「花ざかりの森」結末部では、「伯爵夫人」の山荘を「まらうど」が訪う物語が示される。この箇所は「わたし」という語り手ではなく「透明な語り手」によって語られる。

この結末部については「透明な語り手として生成した「わたし」は、物語作者としては贋物」であり、「引用には頼らないオリジナルな物語」の「贋物」性が既に指摘されている(梶尾文武)。

しかしなぜ「わたし」は「贋物」の物語作者として、「贋物」の物語を語るのか。物語の契機について梶尾は「物語は幻滅ののちに、すでに終わった憧れへの追憶として訪れる」と述べる。しかし憧れとその幻滅の追憶、そして物語る行為へと至る道筋には断絶、飛躍があるのではないか。この所作から「わたし」という存在が何者であるかを見出しうると考える。本発表では物語の契機について考えつつ、この問いを明らかにし、「花ざかりの森」が「作者」生成に関する物語論としての可能性を持つことを提示したい。

(九州大学大学院生)

 

教化される感覚──多和田葉子「犬婿入り」におけるローカリティ──

泉谷  瞬

 第一〇八回芥川賞を受賞した多和田葉子「犬婿入り」(「群像」一九九二・一二)について、作者の育った東京都国立市が舞台のモデルとなっていることはほぼ明らかである。小説の設定と実際の空間を完全に同一視することは危険であるが、しかし国立市の歴史性を出発点として本作を読むことによって、具体性を伴った解釈を提示することも可能ではないのだろうか。汚物を忌避する共同体としての国立市への批判的意識を、多和田はエッセイや対談で度々露わにするが、その中でも作者が小学校で受けた「清潔さというのが何よりも大切」という教育は、物語展開と密接な関わりを持っていると考えられる。また、タイトルが率直に示すように、本作は「犬婿伝承」の民話を積極的に取り込んだ上で成立している。本発表では、この「民話」が持つ特徴を最大限に活用することで浮き出てくる作品の問題意識を論じ、そこに「教育」というキーワードを介入させていきたい。

(立命館大学大学院生)