【報告】昭和文学会2009年度秋季大会
- 日時 2009年11月14日(土) 午後1時30分より
- 会場 花園大学 無聖館五階 無聖館ホール *昭和文学会会員以外の方でも、無料・申込不要にて参加できます。特集「文学と音楽の昭和」
- 開会の辞
花園大学 浅子 逸男 - 研究発表(司会 庄司達也・羽矢みずき)音楽への憧憬――中原中也の場合
加藤邦彦
虚構的「日系人」のエキゾティシズム――一九七〇年代中期の細野晴臣とアメリカ
広瀬正浩言葉と音の断層から――坂口安吾と「エリック・サティ」をめぐる文学的風景
大原祐治 - 講演文学者のための昭和音楽史
細川 周平
- 閉会の辞
代表幹事 傳馬 義澄 - 懇親会
※ 懇親会を予定しておりますので、皆様ふるってご参加下さい。
報告要旨
音楽への憧憬――中原中也の場合
加藤 邦彦
ヴェルレーヌの「何よりもまず音楽を」というよく知られた一節を持ち出すまでもなく、詩はほとんど常に音楽を憧憬している。そして、そのヴェルレーヌから強い影響を受けている中原中也もまた、音楽に対して憧れを抱き続けた詩人のひとりであった。その憧憬のためか、中原の音楽に対する態度を概観すると、どことなく卑屈にみえる。中原は自分の詩に作曲してくれとみずから作曲家たちに歩み寄り、曲のためにその詩に手を加えることも厭わなかった。しかし、この音楽に対する詩人の卑屈な態度は、何も中原に限ったことではないのかもしれない。念のため断っておくと、わたしはここでいわゆる「詩の音楽性」を問題にしたいのではない。わたしが考えたいのは、詩(人)と音楽(家)の力関係である。また、中原の抱いていた音楽への憧憬は、中原の詩観とも少なからず関わりがあると思われる。そのことについて、例の「名辞以前」や実作などに触れながら考えてみたい。
虚構的「日系人」のエキゾティシズム――一九七〇年代中期の細野晴臣とアメリカ
広瀬 正浩
戦後の日本の大衆文化の形成に最も大きな影響を及ぼしたのは、「占領者」の文化としてのアメリカ文化である。アメリカは戦後の日本人にとって超越的な位置にあったが、そのようなアメリカとどのような距離を取るかという問題が、日本の文化の実践者たちに課せられていた。本発表は、一九七〇年代から今日にかけて、日本のポピュラー音楽の中心的な人物である細野晴臣のアメリカに対する態度について考えるものである。特に注目したいのは、一九七〇年代の中期に細野が「ハリー細野」という呼称を用いていた点だ。細野はこの呼称を通じて、「日系人」としての記号性を自らに付託するのだが、少なくとも細野の経歴を見る限り、彼を「日系人」と呼ぶに足る移動の経験を細野自身は過去に持っていない。その意味で細野は、「ハリー細野」という呼称を通じて、虚構としての「日系人」を生きたのである。こうした細野の態度の政治性を、歴史的な状況の中で理解したい。
言葉と音の断層から――坂口安吾と「エリック・サティ」をめぐる文学的風景
大原 祐治
初期の坂口安吾が詳細な註を付したエリック・サティ論の翻訳を試み、エッセイ「FARCEに就て」(一九三一)でも音楽について言及していたことは知られているが、安吾と音楽との関係について、これまで本格的な検討はなされていない。しかし、安吾が中心人物の一人として関わった同人誌「言葉」・「青い馬」が、前衛作曲家・伊藤昇らを執筆者に迎え、文芸雑誌としては異例とも思われる分量の音楽論を掲載するような誌面を構成していたことからは、安吾の音楽それ自体への強い関心がうかがえる。実際、同じくサティに関心を示したモダニスト詩人/編集者・北園克衛は、安吾の訳業とその掲載誌に関心を示し、両者の間には、ごく短期間ながら何らかの共鳴が生じていた。しかし、生涯モダニストであり続けた北園と異なり、その後、安吾の文章からは音楽に関する言及が消える。安吾におけるモダニズムとの訣別とは何か。このことは、若き日に対する「墓」だと自ら位置づける長篇『吹雪物語』(一九三八)の中に痕跡として刻まれているのではないだろうか。
講演者紹介 細川 周平
一九五五年大阪市生まれ。国際日本文化研究センター教授。近代日本音楽史、日系ブラジル文化史。主な著書に『サンバの国に演歌は流れる』(一九九五年、中公新書)、『シネマ屋、ブラジルを行く』(一九九九年、新潮選書)、『遠きにありてつくるもの』(二〇〇八年、みすず書房、読売文学賞受賞)。『ミュージック・マガジン』(一九八九年四月号~一九九四年三月号)に「西洋音楽の日本化・大衆化」と題して、幕末から終戦までの大衆音楽史をまとめ、現在はその単行本化を目指して、増補改訂を行っている。