2013(平成25)年度 昭和文学会 秋季大会【特集:群衆と文学――戦後から現代へ――】

2013(平成25)年度 昭和文学会 秋季大会

会場 金城学院大学 WEST9号館 204号室
〒463-8521 愛知県名古屋市守山区大森2丁目1723
日時 11月9日(土)午後1時より

特集 群衆と文学――戦後から現代へ――

開会の辞

金城学院大学大学院文学研究科長 藤森   清

【研究発表】
荒野の群衆
――開高健「ロビンソンの末裔」――

峯村 康広

〈一揆〉の表象
――群衆を描くとはどういうことか?

石川  巧

群れに躁ぐ、群れに醒める
――古井由吉「先導獣の話」を中心に――

石曽根 正勝

〈エネルギー〉と〈エコノミー〉
――村上龍における〈群衆〉――

立尾 真士

【講演】
人はどのように群れてきたのか
――80年代から現在までの小説について

陣野 俊史

閉会の辞 代表幹事 阿毛 久芳

司会 大谷 哲・宮澤 隆義

※ 大会終了後、懇親会を予定しています。なお、懇親会のご予約は不要、当日受付にてお申し込み下さい。
※ 10日(日)には文学踏査を予定しています。詳細は末尾をご覧下さい。

【講演者紹介】陣野 俊史(じんの・としふみ)
1961年、長崎県生まれ。文芸評論家、フランス文学者。現代フランス文学評論・翻訳、現代日本文学評論、ロックやラップ等の音楽・文化批評、サッカー批評を行う。早稲田大学第一文学部日本文学科卒、明治大学大学院博士課程単位取得退学。現代社会の動向と、小説や音楽活動、スポーツとの間にいまだ語られていない接点を読みとる批評活動を展開している。主な著書に『世界史の中のフクシマ―ナガサキから世界へ』『フランス暴動―移民法とラップ・フランセ』『じゃがたら増補版』『渋さ知らズ』『ヒップホップ・ジャパン』(共に河出書房新社)、『戦争へ、文学へ―「その後」の戦争小説論』(集英社)、『龍以後の世界―村上龍という「最終兵器」の研究』(彩流社)、『フットボール都市論―スタジアムの文化闘争』(青土社)、『ソニック・エティック―ハウス・テクノ・グランジの身体論的系譜学』(水声社)など。その他、翻訳書に『フーリガンの社会学』『ジダン』(共訳、共に白水社)などがある。2013年2月まで『文学界』に評論「文学へのロングパス」を連載。

【発表要旨】

荒野の群衆――開高健「ロビンソンの末裔」――

峯村 康広

「ロビンソンの末裔」は敗戦直後、北海道開拓に入った人々を「私」の目を通して語るという体裁の小説である。すでに指摘があるように、開高の作品にはよく群衆が現れる。「ロビンソンの末裔」も敗戦直前の上野駅構内で出発を待つ群衆が映し出されることで物語の幕があく。彼らは混沌としてまとまりがないのだが、灯火管制(戦時体制)下ではひとまず従順である。もっとも各開拓部落に入植するたびに人々は分断され自然の中に埋没し、群衆は一旦消滅する。作品後半、再び姿を現した群衆は開拓地の状況改善するために組合を作って行政を動かそうとする。陳情運動はうまくいって臨時予算の支出に成功するのだが、結局開拓民らは村から遁走してしまう。ついに土壌が改善されなかったからなのだが、土を媒介にして生まれた群衆はこうして再び解体する。だが他の仲間が逃げ出したにもかかわらず、「私」は開拓地に残り続ける。ここには群衆に対する個の身体の問題が表出しているように思われる。以上のような観点から作品を読み進めたい。
(日大豊山・大東文化大学非常勤講師)

〈一揆〉の表象――群衆を描くとはどういうことか?

石川  巧

エドガー・アラン・ポー「群集の人」がそうであるように、文学は都市生活者の孤独と不安をかきたてる〈影〉として群衆を捉えてきた。群衆はその一様性と集合エネルギーにおいてある種の脅威をもたらす存在だったかもしれないが、文学の関心はもっぱら雑踏のなかを彷徨する単独者の内面に向けられ、その表象を映画や写真に譲ってきた。逆にいえば、文学が射程とする領域には群衆などいなかったし、それを描く方法もなかったということかもしれない。だが、1950年代後半から1960年代にかけて激化した労働運動、安保闘争、大学紛争などを通して、〈影〉に過ぎなかった群衆はリアルなものに転化した。市民が国家権力に抗うためには組織的闘争を展開することが必要であるという認識が正当性を獲得していく状況を目のあたりにした作家たちは、若者のデモや暴動を封建時代の百姓一揆と重ね合わせ、歴史小説の方法でそれを可視化しようと試みた。西野辰吉『秩父困民党』から大江健三郎『万延元年のフットボール』まで、数多くの作品において、自ら群衆のなかに身を投じる若者を描いた。本発表ではそうした観点から問題編成を試み、群衆を描くということはどういうことなのかを考えたい。
(立教大学)

群れに躁ぐ、群れに醒める――古井由吉「先導獣の話」を中心に――

石曽根 正勝

60年代末期、学生運動がたけなわな頃、デビュー間もない古井由吉は群衆というものに惹かれつつ畏れを抱く小説を書き継いだ。群衆は学生運動の集団だけではない。通勤ラッシュ、盆踊り、戦中の空襲訓練、キャンプファイアーに集う人々。それら様々な群衆に敏感に反応しつつ、けれど群れることの熱狂から一歩引いている。熱狂がもたらす様々な無残を想起する。この群れの様相を共同性と呼んでみよう。
群れの共同性を忌避した存在は、どこへ向かっていくのか。それが70年代の古井が突き詰めたモチーフでもある。それら小説では、血縁・地縁といった共同性を積極的に忌避した、無縁から始まる個の新たな関係性を語ろうとする。その関係性を(新たな)公共性と呼んでみよう。しかしその公共性は行き詰まる。
古井の小説が畏れた群れの共同性、その小説が志向した公共性とはいかなるものか。発表では「先導獣の話」「円陣を組む女たち」「不眠の祭り」(以上『円陣を組む女たち』収録)『櫛の火』『栖』『山躁賦』を俎上にあげる。
(会社員)

〈エネルギー〉と〈エコノミー〉――村上龍における〈群衆〉――

立尾 真士

既存の社会構造や規範への違和を描く村上龍の小説において、人間の〈エネルギー〉はそれらシステムへの抵抗力として表象されてきた。また近年、彼がそうした〈エネルギー〉とともに、経済力学=〈エコノミー〉を特権的に捉えていることは周知の通りである。
では〈群衆〉は、村上龍文学においていかなる位置にあるだろうか。例えばそれは、ある場所では暴発する〈エネルギー〉の象徴として表象されるが、別の場所では既存のシステムに盲目的に従う、〈エネルギー〉を欠いた存在と見なされる。或いは、新たな〈エコノミー〉を創出する〈群衆〉がいる一方で、〈エコノミー〉の変遷に翻弄されるだけの〈群衆〉も存在する。端的に言えば、村上龍のテクストにおける〈群衆〉は決して一面的には捉え得ない。
本発表では、『愛と幻想のファシズム』や『希望の国のエクソダス』などで表象される〈群衆〉、彼ら/彼女らにおける〈エネルギー〉・〈エコノミー〉のあり方に着目した上で、村上龍文学の〈群衆〉とシステムとの錯綜的な関係について考察したい。
(亜細亜大学)

11月10日(日)
文学踏査 ~乱歩と不木、日本探偵小説の源流を追って~
〈午前の部〉午前10時、JR名古屋駅中央口改札前集合(一部タクシー利用)
蟹江町歴史民俗資料館・鹿島神社文学苑見学/小酒井不木を育んだ水郷
〈午後の部〉午後2時、JR鶴舞駅公園口改札前集合
鶴舞公園・大須探訪/不木・乱歩の軌跡と、〈都市〉としての名古屋

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文学踏査について追加のお知らせです。(10月22日追記)
(1)10日の文学踏査の昼食については前日の大会の際に申し込みを受け付けます。
(2)名古屋市内のホテルはかなり混んでおりますが、桑名、刈谷、岐阜など、名鉄や近鉄、JRで移動できる距離のホテルにまだ空きがあるようです。ご検討下さい。
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