2022(令和4年)度 昭和文学会 第71回研究集会のお知らせ

*本研究集会は、対面を主とするハイフレックス方式(研究発表は対面会場(明治大学)で行い、感染拡大防止の観点から、視聴者は対面またはリモートで参加する)での開催を予定しております。また感染の拡大状況により、対面での開催が困難となりました場合は、オンラインのみの開催となります。

日時 12月10日(土) 13:00~17:30
対面会場 明治大学 駿河台キャンパス リバティタワー14階 1146・1145教室(〒101-8301 東京都千代田区神田駿河台1-1)
オンライン:「ZOOMウェビナー」による中継。リモート参加には事前登録が必要です。
※開催概要、アクセスなどはこちらを、オンラインでの事前登録についてはこちらをご確認ください。

【チラシ訂正のお知らせ】
送付した第71回研究集会のチラシに誤りがございました。(HPよりダウンロードできるチラシは訂正されたものです)
【誤】第一会場司会:山崎 和・脇坂 健介/第二会場司会:康 潤伊・滝口明祥
【正】第一会場司会:康 潤伊・滝口明祥/第二会場司会:山崎 和・脇坂 健介
謹んでお詫び申し上げます。

【資料についてのお知らせ】
第71回研究集会では、対面会場にて発表資料を限定数(150部予定)配布致します。是非ともご参加ください。

【研究発表】第一会場 1146教室
反転する〈狂気〉──野溝七生子「曼殊沙華の」と〈戦後〉──

菊地 優美

〈現実〉と〈反現実〉──太宰治『トカトントン』論──

周 梅

三島由紀夫「夜の仕度」論──ラディゲ・堀辰雄受容を手がかりに──

福田 涼

倉橋由美子『どこにもない場所』と『暗い旅』における模倣と超越──サルトル受容──

宮澤 桃子

司会 康 潤伊・滝口明祥

【研究発表】第二会場 1145教室
夢野久作『ドグラ・マグラ』とワシーリー・エロシェンコの童話「人類のために」──語り手の脆弱性をめぐって──

谷 美映子

転倒する支配と抑圧──安部公房『砂の女』──

納谷 耕世

つげ義春「李さん一家」と梅崎春生「ボロ家の春秋」──つげマンガのリアリティー──

前田 かおる

司会 山崎 和・脇坂 健介

閉会の辞

代表幹事 佐藤 秀明

【発表要旨】
反転する〈狂気〉──野溝七生子「曼殊沙華の」と〈戦後〉──

菊地 優美(きくち・ゆみ)

 野溝七生子「曼殊沙華の」(『芸苑』一九四六年九月)は、「さうして、戦争は終り、日本は敗れた。」と、敗戦後の日本を前景化した上で始まる。本作は、「気ちがひ」と目され座敷牢に入れられていた「イイちやん」という女性が、語り手の「私」に向けて、生家で起きた兄と兄嫁の自死や、彼女自身が「気ちがひ」として座敷牢に囚われた経緯を語る物語である。〈狂気〉と「常人」の境界を問い、「家」制度下の生家で最も「常識」を身につけた父こそ「正真正銘の気ちがひ」だと喝破する「イイちやん」の語りは、「家」制度が内包する〈狂気〉をあぶり出そうとする。
本発表では、このような「曼殊沙華の」のテクストが、〈戦後〉の言説空間において〈狂気〉を通じて問い直そうとしたものを、「家」制度下のジェンダー/セクシュアリティの観点から考察し、その批評性を検討する。考察にあたっては、占領期である作品発表時の社会状況や言論統制も視野に入れ、戦後の野溝文学の様相の一端を明らかにしたい。
(お茶の水女子大学・研究員)

〈現実〉と〈反現実〉──太宰治『トカトントン』論──

周 梅(しゅう・ばい)

 『トカトントン』(『群像』 一九四七・一)は、郵便局員・「青年」の「某作家」に宛てた手紙と、それに対する「某作家」の簡潔な返信、この二通の手紙を繋げた〈地の文〉、という三つの部分によって構成されている、太宰治の書簡体小説である。
本発表では、まず『トカトントン』に関する従来の研究を概観し、その問題点をまとめる。これまでの『トカトントン』論においては、テクストの基本的構造や物語の展開に焦点化した論考が見られるものの、「青年」の苦悩と「某作家」の返答という両者の関連性を最優先課題とした議論が圧倒的に多い。本発表では、「某作家」の「青年」への返答が的外れなものであると批判してきた先行論を相対化し、論拠を示しながら異なる作品解釈を試みる。その解釈を踏まえたうえで、二通の手紙と、その間に挿入された第三の語り手の一文の三者の関連性から、『トカトントン』という作品のモチーフを再検討したい。
(大阪大学・院)

三島由紀夫「夜の仕度」論──ラディゲ・堀辰雄受容を手がかりに──

福田 涼(ふくだ・りょう)

 「夜の仕度」は、『人間』一九四七年八月号に掲載された。村松剛は、本作の文体や男女の再会の様相について、堀辰雄「ルウベンスの偽畫」やラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』の影響を指摘する。先行論はこうした影響関係を、専ら三島の文学的趣味の問題に還元してきた。
重要なのは、戦争に纏わる状況が男女の恋愛を駆動する構造を、本作がラディゲ『肉体の悪魔』と共有している点である。主人公・芝の「これは僕のせゐぢやない」、「戦争がこんな真似を僕たちに強ひるのだ」との内言も、『肉体の悪魔』の「戦争の始まる数ヶ月前僕が十二歳であつたと云ふのは、それは僕の故為なのかしら?」という一節と響き合う。また芝の「肺病」なる設定も、堀が描いた腺病質の青年らを想起させずにおかない。大勢の健康な若者たちの復員を予期する本作終結部は、「アクテュアリティー」を欠く堀の世界観が、戦後にあっては失調を免れぬことを宣告するのだ。
如上の考察を通して、戦後小説としての「夜の仕度」の批評性を闡明したい。
(呉工業高等専門学校)

倉橋由美子『どこにもない場所』と『暗い旅』における模倣と超越──サルトル受容──

宮澤 桃子(みやざわ・ももこ)

 倉橋由美子の『暗い旅』(一九六一)は、江藤淳によってビュトールの模造品だと指摘されたが、倉橋が真に影響を受けたのはサルトルなのではないだろうか。『暗い旅』の主人公と恋人は、嫉妬なしに自由に他の男や女を愛するという間柄で、サルトルとボーヴォワールを想起させる。倉橋はエッセイ等でサルトルについて多く言及しており、『暗い旅』と同年に発表した『どこにもない場所』の主人公は、存在を感じると吐き気を催す人物で、サルトルの『嘔吐』の主人公と類似する。それにもかかわらず、倉橋におけるサルトルの影響についての研究はまだ手をつけられていないように見える。
恋人同士であるものの「双生の兄妹であるべきだった」と表現される『暗い旅』の「わたし」と「かれ」の関係は、『どこにもない場所』の主人公「L」と双子の弟「K」との関係と相関している。それは、倉橋が創作した独自の「神話的」、「プラトニック」な愛の関係である。従って本発表では、倉橋におけるサルトル受容の様相を具体的に検証しつつ両作品を考察する。そこで倉橋がフランス思想を受容した描き方で発展させようとした小説の過程を検討したい。
(東京都立大学・院)

夢野久作『ドグラ・マグラ』とワシーリー・エロシェンコの童話「人類のために」──語り手の脆弱性をめぐって──

谷 美映子(たに・みえこ)

 来日経験のある童話作家ワシーリー・エロシェンコは、雑誌『現代』第二巻第七号に「人類のために」(一九二一)を発表する(初出タイトルは「人類の爲めに」)。この童話は、博士によって息子が実験材料となる物語であり、夢野久作『ドグラ・マグラ』(一九三五)と類似した構造をもつ。『ドグラ・マグラ』は特異な作品として受容されてきたが、その発表の一四年前に、よく似た構造の童話が既に発表されていたことは注目に値しよう。
語り手の劇中への織り込み、狂気の伝染、科学の発展に対する恐怖と肯定は、両作品に共通しており、その三点全てに通底するものは、語り手自身のもつ脆弱性と考えられる。本発表は、同時代人である久作とエロシェンコの〈個と科学〉の捉え方を比較検討したうえで、両作品に共通する問題について考察する。特に、語り手の自己認識の曖昧さと深く関わる人物の交換可能性について整理することで、『ドグラ・マグラ』と「人類のために」の語り手がもつ脆弱性の特質と、その意義を明らかにしたい。
(東洋大学・院)

転倒する支配と抑圧──安部公房『砂の女』──

納谷 耕世(なや・こうせい)

 安部公房の小説『砂の女』(新潮社、一九六二年)は、結末部で監禁されていた砂穴へと戻っていく主人公の男が主体性を獲得し得たのかという問いを基底に読まれることが多かった。しかし、この問いは男以外の本作の諸要素を周縁化させてきたのではないだろうか。『砂の女』発表の同時代、日本は高度成長期にあり、地方と都市部の格差の拡大が大きな社会問題となっていた。安部は『砂の女』以前から戦後社会が抱える問題を作品に反映させており、本作においては特に辺境にある砂丘の村に時代状況が描かれている。見棄てられた砂丘の村に注目すると、男は「砂搔き」の労働力としてだけではなく、〈労働力の再生産〉のために監禁されていたということがみえてくる。本発表では男自身よりもむしろ男を囲む状況や環境を端緒とすることで、翻って男の主体性の問題を論じるとともに、本作に描かれた支配・被支配関係の様相について考えてみたい。
(一橋大学・院)

つげ義春「李さん一家」と梅崎春生「ボロ家の春秋」──つげマンガのリアリティー──

前田 かおる(まえだ・かおる)

 マンガ家のつげ義春(1937- )の代表作の一つである「李さん一家」は、1967年に『ガロ』に掲載されたマンガで、主人公の青年が風情を求めて引っ越したボロ家の2階に、いつの間にか朝鮮人の李さんの一家が住み着いてしまうという話である。
「ボロ家の春秋」は、1954年に発表された梅崎春生(1915-1965)の小説で、主人公が間借りしていたボロ家に、その家を買ったという男がやって来て、主人公と男との奇妙な同居が始まるという話である。
「李さん一家」と「ボロ家の春秋」を見比べると、オチの唐突さや、突然現れた人物と主人公が同居することとなる点が類似している。本発表では、つげの発言や内容の類似点から、つげが梅崎の「ボロ家の春秋」を参考にして「李さん一家」を描いたことを示す。また、「李さん一家」は、マンガならではの効果を用いて読者に衝撃を与え、つげが主張する「リアリティー」を含んでいる。梅崎の小説のマンガ化にとどまらない「李さん一家」の新しさを指摘する。
(筑波大学・院)