2022(令和4)年度 昭和文学会 第70回研究集会の詳細

*本大会は新型コロナウィルス感染症拡大の影響により、オンライン開催となりました。詳細はこちらのページをご参照ください。 

日時 5月14日(土) 13時〜17時40 

特集 事実と虚構のあいだ――選択と再構成――

開会の辞 

大橋 毅彦(代表幹事) 

【基調講演】 

「事実と虚構」をめぐっての、二三のこと 

成田 龍一 

【研究発表】 

小説と随筆の間――坂口安吾の自伝的小説について――  

德本 善彦 

記録と因数-外――大岡昇平の戦争/小説―― 

立尾 真士 

事実と虚構の境界線――〈地下鉄サリン事件〉テクスト群の可能性―― 

山根 由美恵 

司会 阿部 真也 

【全体討議】 

司会 鈴木 彩・脇坂 健介 

閉会の辞 

大橋 毅彦(代表幹事) 

 

企画趣旨】 

 私たちは日記や備忘録に記したり、SNSに投稿したりすることを通じ、自らの体験を他者に向けて語る。話者が選択した言葉によって再構成されたその記録は、ときに未来に向けて書き残された貴重な資料ともなる。
 文学に関わる問題として捉えるならば、永井荷風『断腸亭日乗』や山田風太郎『戦中派不戦日記』などに見られるように、文学者が私的に書き記した日記が、後年ひとつの〈作品〉として公刊され、注目を集めることもあるし、豊田正子『綴方教室』のように文学者ではない書き手の記した日常の記録が〈作品〉としてパッケージ化され、脚光を浴びることもある。また内田百閒・北杜夫・遠藤周作のように、小説とは別に、随筆・エッセイと呼ばれる文章に体験を綴り、人気を博した作家も数多い。こうした事例から浮かび上がるのは、文学作品とそれ以外のテクストの境界線をめぐる問題領域であろう。
 とりわけ、社会的に注目を集めた事件や、戦争、災害といった平穏な日常の枠組みを大きく逸脱した事態に直面したときには、経験者が自らの体験を語る/書くだけでなく、他者がそこでどのような体験をしたのか、第三者が言語化を試みることもある。そして、そこで記されたテクストは共感を呼ぶものとして同時代的に広く読まれることもあるし、後年において貴重な歴史資料となる可能性もある。人が自己あるいは他者の体験を記すとき、どのような言葉の選択がなされ、再構成がなされるのか。そうした営みに虚構化の萌芽の可能性をみるならば、体験の記録は小説というジャンルとも近接することとなるだろう。
 実際、いくつかの作品のなかには必要に応じて綿密な取材をおこない、資料を博捜することで自分では知り得なかった他者の経験を小説として表現しようと試みるものもある。そして、時に虚構を内包することで達成される再構成は、その他者の体験に新たな光を当て、これまで顧みられてこなかった社会的文脈や問題を浮き彫りにすることもあるだろう。
 本特集では、文学作品が持つ事実と虚構の関係性に注目し、日常を描く表現形態におけるコードの形成に注目することを通して、日常と非日常の境界線が言語表現においてどのように連続し、あるいは断絶されるのかということを考えたい。ポスト・トゥルースといわれる現代においては、事実や体験がどのような視点から捉えられ、どのような手つきで扱われているかという問題も浮上しうる。こうした議論を通じ、出来事の記憶を綴る文学表現の諸相を検証し、事実と虚構の境界線上で繰り広げられる動態としての文学の諸相を捉え返すことを試みたい。 

 

【講演者紹介】
成田龍一(なりたりゅういち)
日本女子大学名誉教授。歴史学者。
近現代史を中心に日本の歴史および歴史学について探究している。また、司馬遼太郎・加藤周一・松本清張など文学と歴史に関する著作・論考も多い。
主な著書に『増補〈歴史〉はいかに語られるか 1930年代「国民の物語」批判』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)、『「戦後」はいかに語られるか』(河出書房新社、二〇一六年)、『増補「戦争経験」の戦後史-語られた体験/証言/記憶』(岩波書店、二〇二〇年)、『歴史論集1 方法としての史学史』、『歴史論集2〈戦後知〉を歴史化する』、『歴史論集3 危機の時代の歴史学のために』(いずれも岩波現代文庫、二〇二一年)など。 

 

成田龍一先生写真

 

【講演要旨】 

 「事実と虚構」をめぐる主題は、さまざまな次元と広がりを有しています。一方で反実仮想の作品群があり、他方にノンフィクションの作品群があり、それぞれに主題に接近する格好の素材です。また依然として、「この物語はフィクションであり、登場人物は実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません」との注釈がつく状況が存在しています。このことも、考察の対象でしょうどこに焦点を当てどの作品を取りあげるかによって、「事実と虚構」をめぐる議論は、論点が大きく異なってきますちなみに、「事実」と「虚構」ではなく、「事実と虚構」という問題構成です)。
 今回の報告ではジャンルが作りだす「事実と虚構」に着目したいと思います。「事実と虚構」という問題系を史学史と文学史のなかで考察し主題に接近することを試みます。前提として、(歴史学が)「事実」を、(文学が)「虚構」を担うという役割分担(?)が大きく崩れている状況を、歴史学の側から確認したうえで、体験と手記をめぐる事例作品を具体的に取りあげたいと思います。フェイクの時代に、「事実と虚構」の問題系を考えるということになります。 

 

【研究発表要旨】 

小説と随筆の間――坂口安吾の自伝的小説について――    

德本善彦(とくもと・よしひこ) 

 一九四六年に発表された「いづこへ」の附記には、これに続く一連の「自伝的年代記小説」(奥野健男)を「二十九」という標題の一冊の本にまとめる予定があったことが書かれている。この計画が実現されることはなかったが、「いづこへ」に続いて「二十七」、「三十」といった自伝的小説が次々と発表され、矢田津世子との恋愛を中心に据えたこれらの小説は戦後人気作家となった「坂口安吾」という作家の像を形づくることとなった。
 これらの自伝的小説は戦後二、三年の間に発表されたものだが、それ以前にも「自伝的小説」というジャンルに自覚的に書かれたものとして「二十一」(一九四三)があり、また「古都」(一九四二)を挙げることができる。本発表では、戦後の視点から戦時期を回想する「いづこへ」をはじめとする諸作と初期の「自伝的小説」との差異に注目し、安吾の述べる私小説とは異なる「自伝的小説」がどのように形成されていったのかという問題を扱う。同時期に発表された身辺雑記を書いた随筆を参照項とすることで、「事実と虚構の間」というテーマに絡めて考察する。
(日本大学) 

 

記録と因数-外――大岡昇平の戦争/小説―― 

立尾真士(たちお・まこと) 

 大岡昇平『俘虜記』の語り手は、しばしば自身の記述が「小説」的になることへの危惧をあらわすが、それは「小説」的な記述が「真実のイリュージョンを破壊する」ゆえという(「生きている俘虜」)。一方で、大岡自身は『俘虜記』を顧みながら「僕の「記録」もやはり小説として扱われて差支えありません」と記してもいる(「わが文学を語る」)。このとき、大岡文学において「記録」と「小説」、事実と虚構の境界は不分明なものであると言えよう。さらに、「「書く」ことによってでもなんでも、知らねばならぬ」「あの過去を、現在の私の因数として数え尽すためには、私はその過去を生んだ原因のすべてを、私個人の責任の範囲外のものまで、全部引っかぶらねばならぬ」(「再会」)と述べられるように、大岡にとって「書く」とは過去の再現-表象に留まるものではなく、現在において「知る」こととともにある。では、「因数として数え尽す」書記行為の過程/果てで大岡とそのテクストが見出すものは、何だろうか。たとえばそれが、単なる虚構の対概念としてではない「事実」であるとすれば、どうか。
 以上の問題意識のもと、本発表では大岡昇平の初期戦争小説について考察する。
(亜細亜大学 

 

事実と虚構の境界線――〈地下鉄サリン事件〉テクスト群の可能性―― 

山根由美恵(やまね・ゆみえ) 

 〈地下鉄サリン事件〉(1995.3.20)は平時の大都市で無差別に化学兵器が用いられた、世界でも類例のない同時多発テロ事件である。ただ、加害者であるオウム真理教をモチーフにしたテクスト群と比すると、〈地下鉄サリン事件〉や被害者を焦点化したテクストは極めて少ない。また、近年活発に研究がなされている〈震災後文学〉文学と比べて注目度は低く、オウム裁判死刑囚の死刑執行後は風化の現状にある。本発表では〈地下鉄サリン事件〉を題材にしたテクスト群に着目し、〈震災後文学〉とは異なった特徴を持つ点をふまえ、その可能性について言及したい。具体的には村上春樹「アンダーグラウンド」(ノンフィクション)、幾原邦彦「輪るピングドラム」(アニメ)を対象にし、事実と虚構の境界線の様相を捉える。「アンダーグラウンド」では、村上が『BRUTUS』(2021.10.15)で言及したスタッズ・ターケル「よい戦争」との比較から、「事実」の再現性と意図の伝達に関わる再構成という方法を、「輪るピングドラム」ではテロ被害者と加害者側の人間の交錯とその〈運命〉の行方で用いられる「虚構」の力についての考察を行う。
(山口大学)