2019(平成31)年度 昭和文学会 第64回研究集会
日時 5月11日(土)14時~18時
会場 亜細亜大学 武蔵野キャンパス5号館2階 522教室
(〒180-8629 東京都武蔵野市境5-24-10)
特集 文学賞・懸賞の可能性と現在
開会の辞
【研究発表】
一九二〇―三〇年代にみる懸賞・映画小説
「民主的な方法」としての読者投票──戦後大衆文芸誌による文学賞設置の試み──
同人雑誌から文学賞へ──一九五〇年代を中心に──
【特別対談】
作家と文学賞
閉会の辞
※ 終了後、キャンパス内ASIA PLAZA四階PLAZAホールにて懇親会を予定しております。予約は不要、当日受付にてお申し込み下さい。
【企画趣旨】
本企画は、文学作品と、それを顕彰する文学賞や懸賞―広義での〈賞〉―との相関関係を検討することを目的としている。これまで文学賞は、時にセンセーショナルな演出を駆使しながら、その時代の文学を占う、様々な作品を世に送り出してきた。昭和文学会でも、「昭和文学研究」誌上で過去二回にわたって(二〇一三年五月、二〇一七年九月)、文学賞研究の展望や動向について言及してきた。しかし、文学賞や懸賞それ自体が注目される機会は、未だ多くはない。
文学賞・懸賞の歴史は、出版メディアの興隆と共に古い。文学作品を顕彰するシステムが、メディアによる出版戦略の一環として、商業主義と深く結びついてきたことは、その勃興期から既に指摘されてきた。それでは、同時代の作家や読者達は、どのように〈賞〉と対峙してきたのだろうか。例えば芥川賞黎明期における太宰治のように、銓衡というメディアイベントそのものを作品の素材とし、自身の作家イメージの創成に利用していった作家の存在がある。作家がいかに〈賞〉の存在を内面化し、創作の源泉としていったかという問題が、ここに存在する。他方、読者の側も、一方的な〈賞〉の享受者・消費者に留まり続けたわけではない。戦後の大衆文学賞は読者による投票システムを導入しており、また昭和三〇年前後の一般公募の懸賞小説には、一般読者からの千単位での応募があったことも知られている。文学賞は、読者が「文学」へと参画していく、架け橋としての役割を果たしていたのである。
さらに文学賞は、文学のジャンル規定とも深い関わりがある。純文学、大衆文学、歴史小説、児童文学、SF・ミステリー、詩・短歌など、〈賞〉は対象を細分化し、その時代のジャンル毎の規範を示す指標としても機能してきた。〈賞〉と文学作品との相互関係を問うことで、時代やジャンルに応じた規範が再生産されていく様、あるいはその境界自体がゆらぐ様を検討できるのではないか。文学賞・懸賞が文学に果たしてきた役割に焦点をあてつつ、現代文学における〈賞〉のあり方や、文学賞研究それ自体の可能性をも検討していきたい。
【登壇者略歴】
籠島雅雄(かごしま・まさお)
一九四五年生まれ。「群像」元編集長。編集者として、さまざまな文学者とかかわる。現在、農民文学賞選考委員をつとめる。
中沢けい(なかざわ・けい)
一九五九年生まれ。作家、法政大学教授。一九七八年『海を感じる時』で第二一回群像新人文学賞(小説部門)、一九八五年『水平線上にて』で第七回野間文芸新人賞を受賞。第三八~四二回(一九九五~一九九九年)群像新人文学賞選考委員。現在、新沖縄文学賞・大阪女性文芸賞・農民文学賞の選考委員。近著に『麹町二婆二娘孫一人』(新潮社)、『アンチヘイト・ダイアローグ』(対談、人文書院)。籠島雅雄氏は群像新人賞選考委員当時の群像編集長。
【発表要旨】
一九二〇―三〇年代にみる懸賞・映画小説
一九二〇―三〇年代に新聞や雑誌上で企画された懸賞映画小説は、新興メディアのもつ大衆性、新奇性、興行性、また紙上映画としての作品の特性といった注目に値する点が数多くある。例えば、企画側と読者との関係からみた時、当時の風潮や懸賞が持つ興行性、映画という新たなメディアの発展について考える興味深い材料となる。また、映画と小説の関係からみた時、映画劇、映画物語、シナリオストーリー、映画筋書、映画脚本などが混在する中で、紙上映画という読み物ならではの工夫をみてとることができる。
本発表では、特に大阪朝日新聞社の懸賞企画で当選した、貴司山治の初期作品『霊の審判』(原題「人造人間」一九二七―一九二八年)を取り上げる。映画は未完成となったものの阪東妻三郎主演が謳われ話題となった本作は、怪奇探偵小説の作風や「異国」の描写、歌詞の挿入、人造人間や二重人格というモチーフなど、同時代の映画や小説の流行が取り入れられている。撮影写真やイラストとともに新聞連載された本作を通して、紙上映画の試みを考えることで、懸賞映画小説のもつ魅力を考察する。
「民主的な方法」としての読者投票
――戦後大衆文芸誌による文学賞設置の試み――
本発表は、戦後新たに設置された文学賞のうち、「小説と読物」の夏目漱石賞や「婦人文庫」の女流文学賞、大衆雑誌懇話会の大衆雑誌懇話会賞、「大衆文芸」の大衆文芸賞のような、読者の意思を銓衡方法に採り入れようとしたものの系譜をたどり、とくに戦後の大衆文芸雑誌が設置した文学賞の、読者による銓衡の試みについて考察する。
敗戦直後から新たな市場、読者を獲得すべく新興の大衆雑誌が乱立したが、そのなかには、大衆雑誌懇話会に代表される、小説・読物の本来の面白さを求める傾向が見出される。これらの大衆雑誌が設置した新たな文学賞には、既成作家による銓衡とは異なる、「民主的な方法」として読者を銓衡に関与させる試みがみられた。しかし、これらの文学賞は、僅かな例外をのぞいていずれも成功しなかった。大衆雑誌懇話会周辺の文学賞の中心にその銓衡方法や受賞作品を検討することで、従来知られた中間小説の形成とは異なる文学大衆化の流れの一端を明らかにしたい。
同人雑誌から文学賞へ
――一九五〇年代を中心に――
戦前において、作家としてデビューするためには同人雑誌というのは極めて重要な経路であった。そこで既成作家や出版関係者に認められることが作家志望者のひとまずの目標であったと言ってよいだろう。一九三五年に創設された芥川賞は、そのような作家志望者を選抜する新人賞として機能した。その一方で、公募型の新人賞でデビューした作家に対しては侮蔑的な視線が注がれてもいた。そのような状況が次第に変わっていくのは戦後になってからのことだ。現在にも続くような公募型の新人賞が矢継ぎ早に創設されたのは、いずれも一九五〇年代のことである。その結果、芥川賞の性質自体が変わっていくこととなり、また、そういった公募型の新人賞から石原慎太郎や深沢七郎といった新しい作家が登場し、しきりに「文壇」の崩壊が叫ばれることともなった。本発表は、一九五〇年代を中心とした作家のリクルーティングの変容とその背景について考察することを目的とする。