2017(平成29)年度 昭和文学会 第61回研究集会
2017(平成29)年度 昭和文学会 第61回研究集会
日時 12月9日(土)午後1時30分より
会場 専修大学 神田キャンパス 2号館208・209教室
(〒101-8425 東京都千代田区神田神保町3-8)
【研究発表】
第一会場(2号館208教室)
詩人としての小川未明 ―― 詩集『あの山越えて』の考察 ――
徳永直「文学サークル」論—― 1930年代の農村における文化活動の群像 ——
伊藤比呂美の詩における「引用」と「声」 ―― 詩「叫苦と魂消る」から考える ――
『完全版 1★9★3★7』 ―― 記憶の継承・分有にむけて ――
ゴーリキー・「超人思想」・小林多喜二
―― 「女囚徒」「最後のもの」の生成過程と多喜二の思想形成をめぐって ――
第二会場(2号館209教室)
「伊豆の踊子」の受容史 ―― 教科書採録の視点から ――
安岡章太郎『海辺の光景』論 ―― 〈ケア〉の視点から
三島由紀夫「祈りの日記」論―― 「日記」という形式をめぐって ――
高橋たか子「ロンリー・ウーマン」論 ―― 連鎖する「欲望」 ――
※ 終了後、1号館地下1階にて懇親会を予定しております。予約は不要、当日受付にてお申し込み下さい。
【発表要旨 第一会場】
詩人としての小川未明 ――詩集『あの山越えて』の考察――
小川未明は、一般的に童話作家として知られているが、実際は小説家であり、随筆家であり、詩を紡ぐ詩人でもあった。詩集『あの山越えて』(尚栄堂、大正3年1月)は、そんな多才な文人が生涯に著した、唯一の詩集である。
しかし、詩人としての未明の活動は、従来、必ずしも注目されてきたとは言えない。「赤い蝋燭と人魚」「野薔薇」「金の輪」等、未明の主要な業績が大正期の童話に集中している事情もあって、これまでの未明研究は、大正童話のみを焦点化する傾向が著しかったからである。
そこで本発表では、小川未明研究史上の影のひとつである、詩人・未明の行状に光を当てるべく、詩集『あの山越えて』の考察を試みたい。明治末・大正初期の口語詩に着目することで、昭和期以降、強固に構築された、未明=童話作家という単一的な図式を相対化する視座を得る――それが発表者の企図するところだ。
徳永直「文学サークル」論 ――1930年代の農村における文化活動の群像―――
徳永直「文学サークル」(『中央公論』一九三三年一月)は、これまで多くが謎につつまれていた一九三〇年代の文化サークル活動の様相を描いた小説である。作中の長野の農村の人々は、日本共産党の強い影響下にあった全農全会派の文学サークル「山びこ」に参加していく。
徳永直「山宣サンの記念碑の畔で」(『文学新聞』一九三一年十一月一日)では、長野を訪れ、全農系の支部員と連絡をとっている様子がわかる。作家同盟の講演会でも長野県下を訪れ、徳永直「文学宣伝隊の必要」(『プロレタリア文学』一九三二年五月)では、飯田町や龍江村、伊那村、中鹽田村、小諸などの作家同盟長野支部下のサークルの存在を報告している。
「文学サークル」は、「サークル活動については読者は批判的に読んで欲しい」と付記された。「文学サークル」の読解を通じて、人物群像によって描かれた一九三〇年代のプロレタリア文化活動の問題と可能性に迫りたい。
伊藤比呂美の詩における「引用」と「声」――詩「叫苦と魂消る」から考える ――
伊藤比呂美が一九八四年に発表した詩「叫苦(ああ)と魂消(たまぎ)る」(『テリトリー論2』所収)は、滝沢馬琴の読本から現代の出産・育児に関わる実用書の類まで、時代とジャンルを超えたテクストを引用し組み合わせることによって構成されている。この詩は、馬琴の中でも妊婦の腹裂きが描かれた部分に着目し、そこに現代の医学的解説の言葉や生々しい切腹の作法を説いた言葉を引用によって重ねていく。引用は伊藤の一貫した手法のひとつだが、その最初の転換点が詩「叫苦と魂消る」であった。この詩を分析し、二次創作やパロディーが文化的な生産力として強調される現在、伊藤比呂美における引用と声のかかわり、その方法原理と特色はどのようなものか、抽出し光をあててみたい。さらに時間的に可能であれば、より一層、引用とコラージュを深化させた『テリトリー論1』以降にどのような方法の変更が起きたのかを考えてみたい。
『完全版 1★9★3★7
』――記憶の継承・分有にむけて――
辺見庸の『完全版 1★9★3★7』(二〇一六年一一月、初版は金曜日、二〇一五年一〇月、以下『1★9★3★7』)は批評、小説、随筆ともつかない特異なテクストである。「かつてなされた戦争のこと、とくにその細部についてぶつぶつとかたろう」とする辺見は、「父」を手がかりに過去の戦争を引き寄せようと試みる。「記憶の継承はいかにして可能か」という問題系を中心に、『1★9★3★7』は、その語りにおいて、「父」の他者化を行う。同時にその「父」を頼りに、ありえた(ありえる)可能性としての地平に、自らを他者として、パフォーマティブにつくり出していく。本発表は、「他者化」と「継承」という矛盾を基点に、記憶の継承がそもそもなんらかの想像的アイデンティティ、「父―子」を前提とした関係を超え、他者化によってしか可能でないとし、そのときはじめて「父―子」に連ならない他者と分有が可能になるということを明らかにしていく。
ゴーリキー・「超人思想」・小林多喜二
――「女囚徒」「最後のもの」の生成過程と多喜二の思想形成をめぐって――
プロレタリア文学の作家たちの多くは、ロシア作家M・ゴーリキーを「プロレタリア文学の父」と仰ぎ、その小説を愛読したことがよく知られている。ゴーリキーはそれ以前にも日本で読まれていたが、明治・大正の文壇では主にゴーリキーの初期の〈浮浪者もの〉が注目されていたのに対して、1920~1930年代には「『母』その他の作品」が注目を浴び、「直接階級闘争と結びつけられて議論され」るようになった。
小林多喜二はゴーリキーに強い関心を持っていた作家の一人である。本発表では、多喜二の初期の戯曲「女囚徒」と短編小説「最後のもの」の分析を行い、多喜二がゴーリキーの作品に見出した「超人思想」が両作品においてどのように展開されているのかについて検討・考察を行う。それによって、最初期の多喜二にとって、団結を踏まえた階級闘争を描いた『母』ではなく、寧ろ個人闘争を描いたゴーリキーの〈浮浪者もの〉が重要な飛躍台となったことが明らかとなる。
【発表要旨 第二会場】
「伊豆の踊子」の受容史 ――教科書採録の視点から――
川端康成「伊豆の踊子」は膨大な数の先行研究があるが、その多くは作家論や作品論を中心としたものであり、教科書における受容を論じたものは比較的少ない。
「伊豆の踊子」は一九五六年、好学社の教科書『高等学校国語一 上(新版)』に採録されて以来、一九六〇年代後半から一九七〇年代後半にかけて、映画化や川端康成のノーベル文学賞受賞に後押しされるかたちで、より多くの教科書に採録されるようになっていった。しかし、「伊豆の踊子」の全文を採録した教科書はきわめて少ない。それを踏まえると教科書における「伊豆の踊子」は、全集や文庫本とは異なった形式で受容されていったと言えるだろう。
本発表では、教科書における「伊豆の踊子」の教科書における受容を考察する。その際、採録した高等学校の国語教科書の全てを対象とした調査をデータとして扱い、採録箇所、改変箇所、設問内容、採録数といった多角的な視点から検証していく
安岡章太郎『海辺の光景』論 ――〈ケア〉の視点から――
安岡章太郎『海辺の光景』(一九五九・一二、講談社)は、母・浜口チカの最期の九日間を、息子・浜口信太郎の視点から描いた作品である。本作は、父不在の家庭状況における母と息子の蜜月の関係性に関心が集まり、長らくエディプス・コンプレックス的な解釈枠組から読解されてきた。母と息子の関係性は初期の安岡が書き継いだ主題でもあり、触れざるを得ない点ではある。他方、本作は「老耄性痴呆症」の母を見舞う息子の物語という側面も有している。本発表では主として後者の側面に着眼しながら、作品を〈ケア〉の視点から読解していきたい。
例えば小澤勲が提唱する「物語としての痴呆ケア」のような〈ケア〉理論を基にすると、チカの「老耄性痴呆症」をいかなるものとして解釈できるのか。〈ケア〉という視点からは、信太郎の言動をどのように捉え得るのか。それらの問いに対する分析を踏まえた上で、信太郎は病床の母とその死をいかに受け止めたのか、結末部の描写も視野に入れながら考察したい。
三島由紀夫「祈りの日記」論 ――「日記」という型式をめぐって――
三島由紀夫「祈りの
作中「わたくし」は更級日記に言及するが、物語への憧憬と耽読という点において孝標女と彼女の姿勢は重なっている。本篇の〈たおやめぶり〉の文体を支えているのは、こうした王朝文学に連なる「系譜」という発想にほかならない。
ただし、しばしば筒井筒の説話にも擬えられてきた本作が「日記」すなわち一人称回想体の結構を採用することによって、勢語とは重ならない独自の虚構を立ち上げていることは見過ごされてきた。
当該時期の国文学研究や堀辰雄ら先行の文学者、そして東文彦との文学的交流からの影響を視野に入れつつ、戦時下に紡がれた物語の方法と王朝文学への憧憬の帰趨を見定めたい。
高橋たか子「ロンリー・ウーマン」論 ――連鎖する「欲望」――
本発表では高橋たか子の短編小説「ロンリー・ウーマン」(「すばる」、一九七四年六月)をとりあげる。「ロンリー・ウーマン」は近所の小学校の放火事件をきっかけとして、想像上の「放火犯」と同一化していく主人公・咲子を描いた作品である。この咲子の不可解な行動・心情は一種の「狂気」としてとらえられ、先行研究では咲子は孤独な狂女であり、その根底にあるのは女性の「自我」への抑圧であると主に解釈されてきた。
しかし、ここで考えてみたいのは、咲子はなぜ「放火犯」に執拗にこだわり、同一化しようとするのかということである。咲子にとって「放火犯」に同一化することは、それそのものが一種の快楽であるかのように作中で描かれている。本発表では咲子の「狂気」を「欲望」としてとらえ直し、この作品が短編連作のうちの一つであることをふまえつつ、その「欲望」がいかにして成立し得るものなのかを明らかにしていきたい。
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