2016(平成28)年度 第59回研究集会
2016(平成28)年度 昭和文学会 第59回研究集会
日時 12月10日(土)午後1時30分より
会場 東京学芸大学 C棟(中央講義棟)302・203教室
(〒184-8501 東京都小金井市貫井北町4-1-1)
【研究発表】
第一会場(C棟302教室)
尾崎翠テクストにおける「影」への恋 ――「歩行」を中心に ――
「女性はみんな母である」——高村光太郎の戦争詩における〈女性〉像の研究——
不透明な戦後 ―― 川端康成『舞姫』における舞踊 ――
安部公房「赤い繭」論 ――「寓話」と名付けられること ――
第二会場(C棟203教室)
〈批評文学〉の可能性 ―― 福田恆存「道化の文学」論 ――
大岡昇平『レイテ戦記』に於ける「人間」と「全体」
中上健次『枯木灘』における語りの構造―― 聴き手としての秋幸 ――
石油資源の獲得という大義 ―― 山崎豊子『不毛地帯』を読む視点 ――
※ 終了後、小金井クラブにて懇親会を予定しております。予約は不要、当日受付にてお申し込み下さい。
【発表要旨 第一会場】
尾崎翠テクストにおける「影」への恋 ――「歩行」を中心に ――
尾崎翠の短編小説「歩行」(昭和6年9月)は、連作的関係にある「第七官界彷徨」(昭和6年2月‐6月)や「こほろぎ嬢」(昭和7年7月)、「地下室アントンの一夜」(昭和7年8月)との連続性については度々注目を集めてきた。しかし、他の尾崎翠テクストとのテーマ的連続性については、未だ大きな研究の余地を残している。
短編「木犀」(昭和4年3月)や評論「映画漫想」(昭和5年4‐9月)等の先行する尾崎翠テクストにおいて、「影」への志向が繰返し提示されてきた。その中心に位置するのはチャップリンへの思慕であり、それは生身の俳優ではなく「影」としてのチャップリン、つまり虚構化され、スクリーン上にあらわれた存在への恋として語られている。本発表では、それらテクストで語られる「影」への恋というテーマの一つの到達点として「歩行」を位置づける。
また、尾崎翠テクストにおける「影」イメージの表象を論じるにあたり、今まで研究の俎上に乗せられてこなかった同時代の戯曲資料などとの間テクスト性についても明らかにしていく。
「女性はみんな母である」―― 高村光太郎の戦争詩における〈女性〉像の研究 ――
太平洋戦時下の戦争詩の多くは、「兵士」や「戦闘」、「死」など〈男性の戦争〉という主題を備えていた。高村光太郎の「彼等を撃つ」や「必死の時」などはその代表作である。だが高村は一方で、女性を歌った戦争詩も残している。太平洋開戦以前、西洋の美に傾倒する『道程』から日本女性に初めて美と愛を見いだす『智恵子抄』まで、高村は女性を様々に表象した。そこでは、特に女性の「肉体」とその肉体に向けられる「性欲」が主題となっていた。こうした女性像は、宣戦布告を経て大きく変貌する。肉体と性欲の要素を削った〈母〉が、作品「女性はみんな母である」や「山道のをばさん」の中に新たな女性像の典型として登場する。一方「少女戦ふ」では、〈母〉以前の女性を「立派な戦士」として称え、戦地の兵士に劣らぬ姿として描いてもいる。本発表は、高村の太平洋戦時下の作品中における女性像に焦点をあて、戦時下の詩における〈女性〉という主題のもと、戦争詩読解の新たな局面を開くことを目的とする。
不透明な戦後 ―― 川端康成『舞姫』における舞踊 ――
川端康成『舞姫』(『朝日新聞』朝刊、1950年12月12日‐1951年3月31日)は、舞踊を中心としながら敗戦後の価値の混乱期を背景に、崩れゆく家族が描かれている。本作では、実在の舞踊家が数多く登場する。その中でもより重要なのは、作品内現在において活動していた人物たちであり、舞台上映ではなかろうか。例えば、波子や品子が鑑賞する「長崎の絵踏」や「プロメテの火」は実際に1950年12月に公演されたものである。バレリーナである波子や品子が、日本舞踊や現代舞踊を鑑賞しているのは注目に値する。バレエに限定されることなく、多様な舞踊が取り上げられていることには、敗戦後の文化の流動性や雑種性が象徴されているといえよう。また、本作では絵画や彫刻などの美術品に関する言及が数多い。見通しが不透明な中で、同時代の芸術に関する情報を積極的に作品に取り込もうとする語り手の姿勢は際立っている。
本発表では、作中に取り込まれた同時代の事象の意味づけを問い直すことで、『舞姫』ひいては敗戦後の川端康成の連載小説における志向や実験意識を捉えることを試みる。
安部公房「赤い繭」論 ――「寓話」と名付けられること ――
本多秋五によって、安部公房が「変貌の作家」と定位されて既に久しい。研究史上、その「変貌」に関する考察では、方法論の変化を主軸として、それに付随する文体の変化や、背景にある思想面の変化が取り沙汰されてきた。
その契機として第二回戦後文学賞受賞作である「赤い繭」が想定され、多く研究が重ねられてきたわけだが、「赤い繭」は、「三つの寓話」と題された作品群の一つでしかない中、初出誌目次においては何故か「赤い繭」が題として掲載されてしまうという複雑な出版事情を抱えており、実のところ、何が第二回戦後文学賞受賞作であるのか定かではないのである。しかし、この不確定な状況を超えて、「赤い繭」は現在まで存在し続けている。
そのことの意味を、まずは「三つの寓話」という相対を再評価したうえで改めて考えてみたい。「赤い繭」には、その他二短編とは別の、自立した力が内在していると考える。
【発表要旨 第二会場】
〈批評文学〉の可能性 ―― 福田恆存「道化の文学」論 ――
批評家・福田恆存は、その出発期から戦後にかけて多くの作家論を執筆した。なかでも「道化の文学―太宰治について―」(「群像」昭和23・6-7)は、太宰治の文学を芥川のそれに連ねることで近代日本文学史上に位置付け、「芸術に生活を一致せしめようと意図」した「裏がへしにされた私小説」であると論じた、戦後福田の代表作である。同時代評を概観すると、福田の提出した太宰像はおおむね受け入れられたようであるが、メタフィクショナルな太宰の小説の語り口を真似た文体への評価からは、「道化の文学」が、批評の一人称は筆者と同一であるという批評の文体に対する先入観を揺さぶるものであったことが読み取れる。本発表では、福田が批評を綴りはじめた昭和10年代の文壇状況を鑑みつつ、戦前の作である「芥川龍之介論(序説)」(「作家精神」昭和16・6)の試みの先に「道化の文学」を定位し、当時の福田恆存が、虚構であることに自覚的である批評=〈批評文学〉に新たな文学の可能性を見出していたことを明らかにしたい。
大岡昇平『レイテ戦記』に於ける「人間」と「全体」
大岡昇平『レイテ戦記』(1971年)の特質は、「人間」の語り方にある。本発表の目的は、『レイテ戦記』と同じく資料とインタビューを用いて書かれた、デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウィンター』、亀井宏『ガダルカナル戦記』等の比較を通し、『レイテ戦記』の特質を浮き彫りにすることにある。
比較対象の文献では「人間」が「全体」から一方的な影響を受けるだけなのに対し、『レイテ戦記』は「人間」が「全体」の影響下にあることを認めつつ、「全体」に対して個人的意志によってコミットしようとする、多様な「人間」のあり方を描写する。『レイテ戦記』に於ける「人間」は「全体」の支配下にあるのではなく、「全体」を作り出す存在として、「全体」と同等の価値を与えられ、両者が相互に影響し合う存在として語られるという語りの構造と展開を、本発表を通して具体的に明らかにしていく。
中上健次『枯木灘』における語りの構造 ―― 聴き手としての秋幸 ――
中上健次(1946~92)の代表作である『枯木灘』(1977年)は、これまで現代文学のカノンとして特権的に評価されてきた。しかし、その評価は『枯木灘』をカノンたらしめるべく、論者の文学観を作品に投影したものに過ぎず、その「語り」の機構全体を分析し、さらにその「語り」の戦略と「路地」という中上の代名詞といえるトポスが有機的に結び付けられて論じられている議論はいまだない。そこで、本発表ではナラトロジーの方法論をもとに『枯木灘』の「語り」を分析していきたい。特に、注目したいのは、作中で主人公の秋幸が他の登場人物の話を聴き、そこから話の語り手に焦点移動が起こるという語りが『枯木灘』で採用されていることである。この語りの文学的効果を分析し、それを物語内容の解釈へ送り返すことで、中上が『枯木灘』で描こうとした「路地」というトポスの文学的意義を定式化してみたい。
石油資源の獲得という大義 ―― 山崎豊子『不毛地帯』を読む視点 ――
『不毛地帯』は、太平洋戦争中、大本営陸軍部作戦課参謀として手腕を振るった壹岐正が、敗戦後シベリヤ抑留11年を経て帰国し、近畿商事で後半生を過ごす物語を中心に展開されている。壹岐正のモデルとされる瀬島龍三の解釈によると、日米開戦は1941年7月26日にアメリカが日本に対して在米資金の全面凍結を決め、石油の輸入がストップすることになった事件に端を発するという。よって、壹岐正が後年、近畿商事での取り扱い品目を紡績から石油に切り替え、イランのサルベスタン油田開発に人生最後の仕事を賭けていった背景には、自らが陸軍参謀として戦争決行へと突入していかざるを得なかった過去の教訓が頭をもたげていたからと解釈できる。本発表では、昭和という時代に日本が直面した米ソ冷戦構造の渦中における政治的かじ取りをはじめ、中東地域や東アジア諸国との国際関係にも目配りしつつ、石油調達問題に焦点を当て、壹岐の判断について論じる。
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