【報告】昭和文学会第47回研究集会

  • 日時 2010年12月11日(土) 午後1時30分より
  • 会場 お茶の水女子大学 大学本館(306教室) *昭和文学会会員以外の方でも、無料・申込不要にて参加できます。
  • 研究発表(司会 浜田雄介・ 山田夏樹)「雑沓」系列の射程――宮本百合子「雑沓」「海流」「道づれ」をめぐって―― 池田 啓悟動揺する語り手の位相 ――佐多稲子「分身」をよむ 鳥木 圭太シミュラークルとしての「憂国」――コピーし/されていく物語―― 中元 さおり津島佑子『あまりに野蛮な』――植民地台湾をめぐる記憶と想像力――  川原塚 瑞穂
  • 懇親会
    ※ 研究集会終了後、学内にて懇親会を予定しておりますので、皆様ふるってご参加下さい。

報告要旨

「雑沓」系列の射程――宮本百合子「雑沓」「海流」「道づれ」をめぐって――

池田 啓吾

宮本百合子の連作「雑沓」(一九三七年一月)「海流」(同年八月)「道づれ」(同年一一月)は、当初三部構成を予定していたが、第一部の途中で執筆禁止にあい、そのまま完成されることはなかった。しかし、ここにはそれ以後の作品からは失われてしまった可能性があったのでないか。「社会の各層の縦断」(宮本顕治宛書簡)を目論んだこれらの連作は百合子の他作品と様子が違っている。女学生の宏子を中心としつつ、その母、学生活動家、デパート店員など、焦点人物が次々と変わっており、宏子の家庭はやがて『二つの庭』に描かれるのと共通の題材を扱っている。こうした自伝的な題材の中に、「だるまや百貨店」や「舗道」で描いた女性労働者が登場し、百合子が三〇年代に作り上げた作品世界が取り込まれている。だが、それぞれの世界は並列したまま溶け合うことなく作品は中絶された。前後の作品との関連を検討しながら、戦後の作品では失われてしまった可能性を考えてみたい。 (立命館大学大学院生)

動揺する語り手の位相 ――佐多稲子「分身」をよむ

鳥木 圭太

佐多稲子「分身」(『文芸春秋』一九三九年七月、『文芸』一九三九年九月)は、日中戦争期の日本(内地)で中国と日本の「混血児」である主人公のアイデンティティの動揺と日常の葛藤を描いた小説である。この作品は母と娘の確執を物語の縦糸に、そこに「混血児」であることの困難さが織り込まれていくが、本発表ではそうした「母と娘」の私的な物語が、〈非常時〉を形成する言説の枠組みへ回収されていく過程を考察し、そこに現れた〈他者〉表象と語り手の位相の動揺との連関を読み取り、左翼運動崩壊後の知識人の主体形成の試みの多くがなぜ「外地」を志向したのかを明らかにする。特にこの問題は、事変下の日本の社会状況において、多くの転向作家たちが戦争を内面化していく問題とも密接に結びついていると考えられる。本発表は、昭和一〇年代の重層的に生起する言説状況の中でテキストが成立した背景を読み直し、複雑に絡み合う同時代の様相の一側面を浮き彫りにする試みである。 (立命館大学大学院研究生)

  シミュラークルとしての「憂国」――コピーし/されていく物語――

中元 さおり

 
三島由紀夫の死後、「憂国」(『小説中央公論』昭和三十六・一)は三島の行動や政治的な態度と関連づけて論じられてきた。また、三島が作品を後追いするかのように「憂国」の世界に接近していくことも指摘されてきた。特に「憂国」の映画化(昭和四十年制作、四十一年公開)は、言語形式から映像形式へと表現様式を変えて自己模倣し、「憂国」という物語を再生産する試みであったように思える。また、この試みの先に、晩年におこなわれた切腹写真の撮影も位置づけられよう。本発表では、このような「憂国」をめぐる反復の経緯をおさえたうえで、切腹表象を手がかりにして「憂国」という作品自体が含み持つ〈模倣性〉を明らかにし、「憂国」がさまざまなコピーの集積体であることを論じたい。また、自己模倣を繰り返していくなかで立ち現れてくるシミュラークル的存在としての三島の一面を提示したい。                                     (広島大学大学院生)

津島佑子『あまりに野蛮な』――植民地台湾をめぐる記憶と想像力――

川原塚 瑞穂

一九三〇年に台湾で起きた抗日蜂起事件「霧社事件」を扱った津島佑子『あまりに野蛮な』(二〇〇八)は、枠物語の構造をしている。一九三〇年代に植民地台湾に生きた女性の手紙や日記、それを手に二〇〇五年に台湾を旅する姪が想像で補った物語、そして旅を続ける姪自身の物語、さらに二人の物語を「あなた」に届ける「わたし」という語り手が設定されている。このように多層的な構造のなかで、二人の女性のみならず、霧社事件の首謀者とされる男性やその娘、客家系の台湾人の男性や「原住民」の女性など、さまざまな立場の人間たちの声、記憶、夢が響きあい、ときに交じり合う。夢と現実、過去と現在が入り乱れるマジックリアリズム的手法は、津島文学の得意とするところだが、その交錯が本作の中で植民地やジェンダーをめぐる権力構造とどうかかわり、文明/野蛮という二項対立をどう読み替えていくのか考えたい。  (お茶の水女子大学大学院生)