2023(令和5)年度 昭和文学会 秋季大会の詳細

*本大会は、対面・オンラインを併用したハイフレックス方式での開催を予定しております。
なおコロナの感染拡大など、対面開催が困難になった場合は、オンラインのみの開催となります。

※「ZOOMウェビナー」によるリモート参加には事前登録が必要です。開催概要、アクセスなどはこちらを、オンラインでの事前登録についてはこちらをご参照ください。

日時 2023年11月11日(土)13:00~17:30

会場 追手門学院大学 茨木総持寺キャンパス 2階A271教室

 

 特集:女性の/とエッセイ再考

 

【開会の辞】

真銅正宏(追手門学院大学学長)

【講演】

エッセイと小説の間

津村記久子氏(作家)

岡英里奈・康潤伊(聞き手)

【研究発表】

批評とエッセイのあいだ
――三枝和子『恋愛小説の陥穽』をめぐって――

高山京子

疎外される多声――在日女性エッセイの視角から――

金岡直子

【基調報告】

「あの女にとってはこの汚い国の一部一部が金よりも価値のあるものだったのか?」
――旅行エッセイの執筆者像を捉え返す――

泉谷瞬

司会 齋藤樹里・山崎和

【シンポジウム】

司会 岡英里奈・康潤伊

【閉会の辞】

佐藤秀明(代表幹事)

※懇親会の開催を、学内にて18時より予定しています。

 

【企画趣旨】

「エッセイ(essay)」という語が「随筆」の意味に収斂し、それにかわる文芸ジャンルの名称として定着するのは、いつからであろうか――。ターニングポイントの一つとなったのは1951(昭和26)年の日本エッセイストクラブの創設であろうが、そこでは「試論」や「論説」など、「随筆」の類似イメージとしてよりも幅広い種々の文章を指す語として「エッセイ」があったといえる。しかし1970年代末から80年代になると、これまでの文壇とは異なる文脈からの書き手や表現によるエッセイが登場・定着し、数々の話題作やベストセラーを生んだ。近現代の文学史においても、また現行の出版界においても、エッセイという文芸ジャンルは確かな存在感を持っているが、これまでエッセイが文学研究の主題として論じられる機会は極めて少なかった。本企画は、そのようなエッセイを議論の俎上に載せ、その表現の変遷や社会的に果たしてきた役割について再考を目指すものである。
とりわけ注目したいのが、女性の書き手によるエッセイである。その歴史は「随筆」や「小品」と主に呼ばれた時代も含め、与謝野晶子や森田たま、林芙美子、幸田文、森茉莉、田辺聖子らによって連綿と紡がれてきた。とくに1980年代には、林真理子『ルンルンを買っておうちに帰ろう』(1982)や群ようこ『午前零時の玄米パン』(1984)などに代表される「自虐」を交えた「飾らない、ありのままの、ふつうの私」を表現するような文体が登場し、女性エッセイのモードを変えていった。こうした「ふつう」の女性たちによる「自虐」や「暴露」というスタイルは、読者である女性たちを勇気づけることもある一方で、女性たちの対立を煽り、分断を生むこともあった。しかし近年においては酒井順子『負け犬の遠吠え』(2003)や雨宮まみ『女子をこじらせて』(2011)、ジェーン・スー『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(2014)など、多様化した女性たちの生き方やそれゆえの生きづらさに言葉を与えるような、エンパワーメントとしての側面をより強く持った作品が登場してきている。「ふつう」の女性たちの生き様を語ってきたこれらの女性エッセイは、時に小説以上に多くの読者を獲得し、影響力を持ってきたといえよう。
しかしこれまでの文学場において、これらのエッセイは「軽いもの」「文学的ではないもの」とみなされ、男性作家によるもの以上に、文学研究の対象としては扱われてこなかった。小説家によるエッセイの場合でも、作家の思想的背景の裏付けや小説読解のための補助的資料として扱われることがほとんどであったのではないか。だが、これらの女性エッセイには、評論や小説とは異なる位相の言葉で以て社会にアクセスしてきたという点で、文学史・ジェンダー史上における重要な意味があるといえる。彼女たちの時に挑発的なしたたかさやしなやかさを持った言葉、それゆえに生起する読まれることへの自覚とそれがもたらす語りのゆらぎ、そしてそれを発表するメディアや読者との関係のあり方。それらからは文学研究の主題たり得る様々な論点が提起できるはずである。

 

【講演者紹介】

津村記久子(つむら・きくこ)

1978年大阪市生まれ。2005年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞、2019年『ディス・イズ・ザ・デイ』でサッカー本大賞、2020年「給水塔と亀(The Water Tower and the Turtle)」(ポリー・バートン訳)でPEN/ロバート・J・ダウ新人作家短編小説賞、2023年『水車小屋のネネ』で谷崎潤一郎賞を受賞。近著に『うどん陣営の受難』『サキの忘れ物』『つまらない住宅地のすべての家』『現代生活独習ノート』など、またエッセイに『やりたいことは二度寝だけ』『二度寝とは、遠くにありて想うもの』『くよくよマネジメント』『枕元の本棚』『まぬけなこよみ』『やりなおし世界文学』などがある。

 

【研究発表要旨】

批評とエッセイのあいだ――三枝和子『恋愛小説の陥穽』をめぐって――

高山京子(たかやま・きょうこ)

 日本文学におけるエッセイというジャンルには、おおまかに言って二つの大きな潮流がある。ひとつは、『枕草子』に始まる「随筆」の伝統で、主として書き手の身辺生活や感性の表出が中心となるもの。もうひとつは、モンテーニュなど海外のエッセイストの流れを汲む、「試み」「批評」などを表現するものである。たとえば富岡多惠子は、「エッセイ風な書き方と、評論風のきちんとした書き方とのあいだをいくというやりかたは、意識していた」といった興味深い発言をしている。その富岡をして「あなた、やり始めたわね」と言わしめたのが、三枝和子の『恋愛小説の陥穽』であった。
三枝はここで、いわゆる文豪と呼ばれる男性作家の恋愛小説を、フェミニズムの立場から徹底的に相対化してみせた。本発表では、没後20年を迎えた三枝和子の表題作品を中心に、同時代の女性作家の著作も視野に入れ、批評とエッセイのあいだに立つ、その戦略的な意味について考察する。(都留文科大学・創価大学非常勤)

 

疎外される多声――在日女性エッセイの視角から――

金岡直子(かなおか・なおこ)

 日本に「在日朝鮮人」が誕生して100年以上が経過し、在日朝鮮人、韓国人による文学(以下、「在日文学」)にも女性の視点がひろがりをみせている。しかしながら「在日文学」には、女性に対するみえざる〈疎外〉の問題がある。民族闘争、あるいは政治的抵抗の証として「在日文学」が語られてきたなかで、女性たちは後景におかれてきた。その当事者である女性たちの貴重な証言集として、呉文子による同人誌『鳳仙花』(1991・1~2013・9、全27冊)の存在がある。同誌の素朴な文体でつづられた経験的事実と、同時期の在日女性作家のエッセイを比較しつつ、韓国文学におけるフェミニズムに先駆けた動きであったことを検討する。同時に、作家や同人たちの「身世打鈴」は、あくまで「在日文学」の一隅を照らしたにすぎないのではないか、という仮説も立てていく。彼女たちが抱えてきた二重〈疎外〉――在日外国人/女性――を消化するには、いずれかの国への傾斜/女性らしさの肯定、というような行動で均衡を保つ必要がある。その均衡の要因ともいえる限定的な「在日」像についてもあわせて検討する。(滋賀大学・天理大学非常勤他)

 

「あの女にとってはこの汚い国の一部一部が金よりも価値のあるものだったのか?」
――旅行エッセイの執筆者像を捉え返す――

泉谷瞬(いずたに・しゅん)

 女性が国外を旅するという「経験」は、どのように記述され、またどのように受け止められたのだろうか。本報告では、さくらももこや角田光代を始めとする1980~2000年代を中心とした様々な女性の書き手からなる海外旅行記(旅行エッセイ)に焦点を当てる。メディアを通して形成される観光イメージは、それらを消費する読者の願望があらかじめ投影されたものと見ることが可能である。すると「エッセイ」といえども、そうした読者からの要請を見越した自己規定や作為性から完全に逃れることは難しく、むしろ旅行エッセイを執筆する主体として期待される女性ジェンダーのあり方を探ることもできるのではないか。
また、それらの非日常的な表現によって構築された「観光客のまなざし」(ジョン・アーリ)が、経済的な翳りを見せ始める同時代の日本社会における「日常」イメージを逆に強化・再確認させた可能性も検討したい。(近畿大学)