2021(令和3)年度 昭和文学会 秋季大会のお知らせ

*本大会は新型コロナウィルス感染症拡大の影響により、オンライン開催となりました。こちらをご参照ください。

日時 11月13日(土) 13時〜17時30分

特集 食卓は何を映しているか

開会の辞

大橋 毅彦(代表幹事)

【基調講演】
連続ドラマが描く家族の食卓

阿古 真理

【研究発表】
オムライスに描く『家族』への欲望――日本のクィア映画にみる食卓――

久保 豊

誰のための料理――あるいはモダンガールの作ったおでんのゆくえ――

鈴木 貴宇

司会 中野 綾子

【シンポジウム】

ディスカッサント 山田 宗史

閉会の辞

大橋 毅彦(代表幹事)

【企画趣旨】
 味や香りや彩りなどの感覚、懐かしさや驚きなどの感情を喚起する食事の描写は、文学の魅力の一つである。しかし、華麗で、美味しく、ときにエロティックですらある食の喜びに注目する「美食の文化」の観点は、食事の〝日常性〟を後景化してしまう。
 日々の食事には、アンペイド・ワークとしての家事が伴う。その苦しみはしばしば不可視化されてきた。阿古真理氏が指摘するように、「家庭料理」の表象は、家族の団らんの暖かな印象をまとう一方で、家事の担い手である「主婦」に対しては毎日異なる献立で多くの品数を揃えなければならないという〝呪縛〟となった。また食卓は、出身階層やエスニシティの差異によって食材や味付け、マナーなど多様なレベルでのディスコミュニケーションが生じうるという意味で、異文化間の葛藤が発生する場でもある。
 こうした観点から、本特集では「食卓」を社会や個人の生と食べることとの不即不離の関係を映し出す場として捉えたい。例えばちゃぶ台やダイニングキッチンの導入が家族観や個人意識の変化と呼応すること。社会的関係における躓きが、拒食や過食などの食にまつわる障害として表れること。エスニック料理店や食材店が点在する街並みが、移民労働者に依存する社会構造と連動していること。それらの結節点としてある「食卓」は、ひとびとが生きる時代の様相や、コミュニティのあり方を映し出してきた。
 では、戦後から現代に至る日本の表現者はどのように「食卓」を描いてきたのだろうか。たとえば森田芳光監督による映画『家族ゲーム』(一九八三年)では最後に崩壊するダイニングテーブルに家族関係の奇妙さが集約される。吉本ばななの小説「キッチン」(一九八七年)では台所を好む主人公が、食卓と呼ぶべきテーブルを持たない家で束の間の疑似家族生活を営む。テレビドラマ化も行なわれた、よしながふみによるマンガ『きのう何食べた?』(二〇〇七年~)は中年ゲイカップルの食卓を中心に据え、食事を共にする者どうしのさまざまな関係、あるいは作中人物の加齢に、折々のレシピがゆるやかに連動して物語を彩る。津村記久子は『ポースケ』(二〇一三年)をはじめとする小説で、家族など親密さを基盤とするものとは異なる癒しの共同体を食の場面で模索している。
 本企画では日本文学研究者に加えて生活史研究家、映画研究者を招くことで、日々の「食卓」が映し出してきたもの、そして表現者たちが「食卓」に投影してきたものについて明らかにしていきたい。

【講演者紹介】
阿古 真理(あこ・まり)
 作家・生活史研究家
 女性の生き方や食を中心にした暮らしの歴史を研究する。主な著書に『うちのご飯の60年 祖母・母・娘の食卓』・『昭和の洋食 平成のカフェ飯 家庭料理の80年』・『母と娘はなぜ対立するのか 女性をとりまく家族と社会』(いずれも筑摩書房)、『料理は女の義務ですか』・『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』(共に新潮新書)、『料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。』(幻冬舎)など。

【講演要旨】
 一九七四年放送の『寺内貫太郎一家』から二〇二一年放送の『大豆田とわ子と三人の元夫』まで。テレビが各家庭に普及した一九七〇年代から二〇二一年まで、時代を十年ごとに区切り、時代を代表する六本の人気連続ドラマの食卓をピックアップ。それぞれの物語が描く家族の姿と、食卓の描かれ方、登場する料理から、それぞれの時代の気分や欲望を読み解く。
 この半世紀で社会は大きく変わったが、そうした変化は、時代に敏感な人気テレビドラマに色濃く反映されている。過去から順に時代を辿り、その背景を掘り下げていくことで、日本の社会風俗史を描くことができる。さまざまな人間関係が描かれるドラマを通して、これからの時代に何が必要とされているかを考えたい。

【研究発表要旨】
オムライスに描く『家族』への欲望――日本のクィア映画にみる食卓――

久保 豊(くぼ・ゆたか)

 リュミエール兄弟の『赤ん坊の食事』(一八九五年)以降、映画が描く家族の多くは食卓のイメージと共に発展してきた。食事の用意・配分・消費の流れを軸に、映画にみる家族は一つの食卓を囲むことで絆を強化・維持し、あるいはときに食卓は家族分断の場となってきた。食卓がどのような機能を果たすにせよ、それが一八九五年以降の映画史を通じて栄養を与えてきた家族像のほとんどが異性愛規範に基づいた形であったことは、ゲイ・プールのReel Meals, Set Meals(一九九九年)に代表される映画と食卓に関する先行研究が明らかにしてきた通りである。映画にみる食卓のイメージは家族のそれと同様に異性愛規範を強化・再生産する視覚・嗅覚・触覚的コードの一つとして用いられてきた一方で、その規範が想定する人生設計から逸脱するとされてきた性的マイノリティの生きた経験を描く広義のクィア映画にも食卓(の不在)が頻出する。日本のクィア映画も例外ではない。本発表では、映画にみる食習慣(foodways)をめぐる先行研究を援用し、一九九〇年代から二〇二〇年代までの日本のクィア映画史の流れを概観した上で、主に『佐藤家の朝食、鈴木家の夕食』(月川翔、二〇一三年)がどのようにさまざまな料理を使って異性愛規範的な家族像への憧れを描くかと同時に、その憧れがいかに賞味期限切れであるかについて論じたい。(金沢大学)

誰のための料理――あるいはモダンガールの作ったおでんのゆくえ――

鈴木 貴宇(すずき・たかね)

 SNSでのコミュニケーションが日常化した今日、私たちは知らない誰かの食べているものを目にし、あるいは知らない誰かに向けて自分が食べているものを公開するといった行為にさしたる抵抗もなくなじんでいる。しかし少し考えてみれば、「食べる」という行為は三大欲求に直結しているがゆえに、本来はきわめてパーソナルなものであり、それはしばしば性愛のメタファーとしても機能してきた。日本近代文学において商品化された性がトピックとなる事態は昭和初期、モダニズム文学においてなされてきたが、その騎手とされた龍胆寺雄の代表作「アパアトの女たちと僕と」(一九二八)ではモガの少女がおでんをこしらえてともに食卓を囲もうとするシーンが登場する。本発表はこの作品を出発点に、「食卓を囲むこと」への憧れと欲望が戦後日本の高度成長期にはどのように大衆化したかについて、主にNHKの長寿番組「きょうの料理」を手掛かりに考えるものである。(東邦大学)