2021(令和3)年度 昭和文学会 春季大会のお知らせ

*本大会は新型コロナウィルス感染症拡大の影響により、オンライン開催となりました。こちらをご参照ください。今回は延期となりました2020年6月の春季大会の内容を一部変更して開催いたします。

日時 6月19日(土) 13時〜18時

昭和文学会・韓国日本学会 姉妹学会締結記念 国際シンポジウム
東アジアにおける翻訳とアダプテーション

【開会の辞】(13時より)第一会場

石田 仁志(会務委員長)

【基調講演】(13時10分~13時50分)第一会場

コリアンディアスポラ文学の歴史的・文学史的意味――韓国語訳『火山島』を中心に――

金 煥基(韓国日本学会会長・東国大学教授)

【研究発表】(14時10分~17時30分)
〈第一会場〉
(14時10分~15時40分)
二重化する演劇――チェーホフ『かもめ』のアダプテーション――

嶋田 直哉(明治大学教授)

日韓の間におけるドラマと映画のリメイクの流れと研究――1998年以降をたどって――

李 朱利愛(梨花女子大学准教授)

(16時~17時30分)
〈民族〉と〈愛〉――映画「李朝残影」(이조잔영)から「박열」(金子文子と朴烈)まで――

光石 亜由美(奈良大学教授)

台湾における日本近代文学の翻訳とアダプテーション――佐藤春夫台湾関係作品を中心に――

邱 若山(静宜大学教授)

〈第二会場〉
(14時10分~15時40分)
歌の翻訳と韓日大衆音楽の創造的相互作用

朴 眞秀(嘉泉大学教授)

森鴎外文学の民国期における受容――「魚玄機」を例に――

高 潔(上海外国語大学教授)

(16時~17時30分)
東アジア探偵小説史構築のために――江戸川乱歩と金来成――

吉田 司雄(工学院大学教授)

〈普通〉に越境すること――崔実『ジニのパズル』の韓国語訳をめぐって――

康 潤伊(創価大学助教)

【閉会の辞】(17時50分より)第一会場

大橋 毅彦(代表幹事)

※終了後、〈第一会場〉にて総会を予定しております。

【企画趣旨】
 日本における東アジアの文学作品やコンテンツの翻訳・アダプテーションは、中国の『西遊記』『水滸伝』などの伝奇的な作品をはじめとして古い歴史があるが、近年では東アジア各国の現代作家の翻訳が盛んだ。とりわけ韓国文学への関心は高く、韓国国内で売り上げが100万部を超えたチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(2016年)は、2018年12月に邦訳が刊行されて以降、すでに13万部を超える売り上げを記録している。韓国の若手作家を中心とした翻訳のシリーズが次々に刊行される一方で、引き続き村上春樹や東野圭吾など日本の現代作家が東アジア各国で多くの読者を獲得している状況からは、東アジアの文学や文化への関心が相互に高まっているといえよう。また、エンターテインメント界においても、東アジア各国におけるドラマや映画の相互リメイクや共同制作が近年盛んに行われている。小説や漫画の「実写化」が話題になっている今日において、それらがさらに他言語に訳され、他国に受容されると同時に、新たな作品が制作されるという、ジャンルや国の〈越境〉はもはや珍しいことではない。
 翻訳もアダプテーションも、原作を新たな言語、もしくは新たな形式へと置き換える作業であるが、従来はいずれも原作に忠実であることが理想とされ、〈オリジナル/コピー〉の二元論のなかで語られてきた。しかし、2018年に村上春樹「納屋を焼く」(1983年)を韓国の映画監督イ・チャンドンが「버닝」(英題:Burning)のタイトルで映画化した作品は、舞台を韓国に移し、ストーリーを大幅に変更したミステリ仕立てになっている。本作は国際的に高い評価を受けているが、こうした作品を二元論のみで語ることは、翻訳やアダプテーションが持つ様々な可能性を取りこぼすことになるだろう。以上を踏まえ、本企画では、文化的な差異や言語の壁、メディアやジャンルさえも越え、新たな作品が活発に生み出されている現状に着目する。もちろんそうした〈越境〉では、様々な困難や軋轢のほか、置き換え可能なものだけをすくい取るようなフィルターが働き、ある種の暴力性を発露させる場合もある。しかし、そうしたフィルターを可視化するということも、先述の二元論を離れる意義の一つと思われる。翻訳やアダプテーションにより生じた東アジアにおける文化的交流について、その歴史性も含めて多方面から検討するのが本企画の趣旨である。

【講演要旨】
 韓国近現代史において、コリアンディアスポラの歴史と文化・文学様相は特別な意味をもつ。旧韓末から始まったコリアンの海外移住・移動は植民地期を経て、「解放」後の朝鮮戦争、近代産業化、民主化運動、1988年ソウルオリンピック、グローバル時代を迎えるまで続いている。コリアンは、旧韓末-植民地期にロシアの沿海州と中国の東北地域、ハワイ、メキシコ、日本などの地域へと移住・移動し、「解放」後は朝鮮戦争、戦争孤児と戦争捕虜、農業移民、派独鉱夫と看護師にいたるまで様々な形で移動し続けている。最近、多民族国家・多文化社会へと移行している韓国において、そうしたコリアンディアスポラに対する活発な議論がなされている。コリアンディアスポラの歴史と文化・文学様相が韓国近現代史を代弁する肝心な記録であり証言であるからだ。たとえば、旧ソ連圏の『レーニンキチ』、中国朝鮮族の『延辺文藝』、アメリカの『米州文学』、ブラジルの『熱帯文化』、在日コリアンの『季刊三千里』、アルゼンチンの『アンデス文学』、ドイツの『独逸韓人文学』といった、ハングルの新聞や文芸雑誌の数々は祖国の外側で韓国近現代史を表象した大切な記録である。本発表では、以上のようなコリアンディアスポラ文学の様相を紹介した上で、韓国語訳『火山島』を中心に、彼らの文学作品がもつ歴史的・文学史的な意味を検討したい。

【講演者紹介】
金 煥基(キム・ファンギ)
 東国大学教授。専門は日本近代文学、コリアンディアスポラ文学(旧ソ連圏、中国朝鮮族在日コリアン、米国、ブラジル、ドイツなど)。著書、訳書などに『山本有三文学とヒューマニズム』(亦楽 2001年)、 『在日ディアスポラ文学』(セミ 2006年)、『ブラジル・アルゼンチンコリアン文学選集』(寶庫社 2013年)、『火山島(12)』(金石範著 寶庫社 2015年)などがある。近年の論文は「旧ソ連圏の高麗人文学の形成と展開様相―『先鋒』と『レーニンキチ』を中心に―」(『東岳語文学』第88輯 2020年)、「南米のコリアンディアスポラと故郷・祖国の記憶―韓国戦争期反共捕虜と近代化・産業化を中心に」(『翰林日本学』35 翰林大学 2020年)など。

【研究発表要旨】
二重化する演劇――チェーホフ『かもめ』のアダプテーション――

嶋田 直哉(シマダ・ナオヤ)

 東京デスロック+第12言語演劇スタジオ公演(作=ソン・ギウン、演出=多田淳之介)『가모메 カルメギ』(初演、ソウル、ドゥサンアートセンター、2013・10)は、チェーホフ『かもめ』(1896)の舞台を、1930年代の日帝時代の朝鮮に置き換えた演劇作品である。日韓共同(協働)公演として、両国の俳優やスタッフはもとより、台詞そのものも日韓両言語が使用された、極めて意欲的な作品である。本発表ではロシアの作品である『かもめ』が、東アジアの歴史のなかに位置づけられ、アダプテーションされていく過程を、『가모메 カルメギ』の台本と舞台映像から検証したい。このような検証を経ることで、『かもめ』の普遍的な主題や構造はもとより、日韓をめぐる〈歴史/物語〉の語りについて考えていきたい。(明治大学)

日韓の間におけるドラマと映画のリメイクの流れと研究――1998年以降をたどって――

李 朱利愛(リ・ジュリエ)

 本研究では、1998年から2004年に韓国での日本文化開放以降における2021年現在までの両国間のドラマや映画のリメイクの流れを概観する。ドラマや映画のリメイクは原作がマンガや小説をはじめ、ドラマや映画以外にも最近ではウェブトゥーン、ゲームなどソースが多方面に渡っており、消費の形態もTVや映画館とともにOTTのプラットフォームを通じた視聴へと消費の形態が変化している。こうしたメディアの多角化を踏まえつつ日韓間のドラマや映画のリメイク数、アダプテーションの様相をまとめたい。また、文化開放後両国間のリメイクの増加により、リメイクドラマや映画は研究素材としても活用されるようになった。本発表ではここおよそ20年間の諸研究から、言語的および文化翻訳の側面などの分析結果を用いて日韓の間のリメイクによる変容をまとめる。(梨花女子大学)

〈民族〉と〈愛〉――映画「李朝残影」(이조잔영)から「박열」(金子文子と朴烈)まで――

光石 亜由美(ミツイシ・アユミ)

 アダプテーションとは、元テクストを別の体系へ置き換え、再解釈、再創造する契機である。また、文化、ジャンルを超えるトランス・カルチャー、インタージャンル的なコミュニケーションでもある。本発表では、日本と韓国、二つの国家・民族・文化を越える〈異性愛〉の表象のされかたを、小説、映画、ドラマ等の複数のメディアから見てみたい。
 具体的には戦後初めての日韓合作映画である梶山季之原作の「李朝残影(이조잔영)」(1967年)から、日韓友情年(2005年)を背景とした日韓共同制作映画やドラマ、そして、近年の映画「박열」(邦題:「金子文子と朴烈」)までを通史的に概観した上で、日韓の男女の恋愛や結婚の描かれ方、国境を越えた〈異性愛〉の表象のされかたを考察する。二つの国家・民族・文化を背景とした〈異性愛〉は解釈のせめぎ合う場所である。特に植民地経験に注目することによって、〈民族〉と〈愛〉を担わされた女性ジェンダーのありかたを検討する。(奈良大学)

台湾における日本近代文学の翻訳とアダプテーション――佐藤春夫台湾関係作品を中心に――

邱 若山(キュウ・ジャクサン)

 台湾における近代日本文学の翻訳(中国語訳)は、70年代の芥川の作品、川端ブーム、三島ブーム、また三浦綾子『氷点』ブームを経て、80年代以降の、台湾の日本語文作家の作品の翻訳が続々と行われた。87年戒厳令が解かれてから、日本文学の翻訳がさらに盛んになり、今日の村上春樹ブームまで続く。一方、日本語世代の台湾人作家によって細々と翻訳、紹介されてきた殖民地時代の日本人作家の台湾関係作品が、90年代から注目されるようになった。筆者の手になる『佐藤春夫 殖民地の旅』(2002年、新版2016年)―表題作や「女誡扇綺譚」を始めとする佐藤春夫の台湾関係作品を集めた中国語版作品集―の出版は、その代表的なものの一つになっている。筆者の佐藤春夫研究に関連する仕事の一環であったが、それがその後の台湾殖民地文学研究に多大な影響を及ぼし、2020年の国立台湾文学館主催の「百年の旅びと 佐藤春夫1920台湾旅行文学展」に繋がっている。そして、『殖民地の旅』という同題のアダプテーションまで出来た。本稿では、台湾における近代日本文学の翻訳とアダプテーションを論述し紹介する。(静宜大学)

歌の翻訳と韓日大衆音楽の創造的相互作用

朴 眞秀(パク・ジンス)

 21世紀の今、韓国では「トロット」がブームを起こしている。トロットとは、日本の演歌と似通った一昔前の大衆音楽ジャンルである。が、両者は韓国でも日本でもほとんどの場合、別物扱いされている。しかし実は、内容(題材・情調など)においても音楽形式(メロディー・歌い方)においても、その根本は一つである。20世紀の初頭、軍歌・教育唱歌・讃美歌など西洋音楽の影響下で作られた感性をもとにして、レコードやラジオという新メディアにより、一つの空間のなかで生まれたものだといえる。1910年代の〈カチューシャの歌〉から1930年代の流行歌までの様々な曲の直接的影響を受けた植民地朝鮮では、1930年代からは〈アリラン〉など多くの曲を「内地」へ発信した。その後、両者の間には互いに積極的な翻訳・翻案があった。今日のトロットブームは、その延長線上にあり、単なる一国内のみの文化現象ではないと思われる。(嘉泉大学)

森鴎外文学の民国期における受容――「魚玄機」を例に――

高 潔(コウ・ケツ)

 森鴎外は日本近代文学を代表する文豪であるが、作品の中国語訳は夏目漱石と比べると、はるかに少ない。清の末から民国時代を通して、日本近代文学は盛んに中国に翻訳紹介されている中、森鴎外の作品の翻訳がごく少数に限られている。今回の発表は、森鴎外が中国古典に取材した作品『魚玄機』を例に、深い漢学の素養を持っている作家森鴎外の中国古典を題材とした作品は民国時代、どのように翻訳紹介されているのかを明らかにしたい。と同時に、中国人作家の書いた魚玄機を題材とする作品(李拓之『埋香』、趙景深『女詩人魚玄機』)を引き合いにして、森鴎外の中国古典に取材した作品が中国に“逆輸入”したときの受容に注目し、ここから森鴎外文学の翻訳紹介の現状とその理由の一端を覗いたい。(上海外国語大学)

東アジア探偵小説史構築のために――江戸川乱歩と金来成――

吉田 司雄(ヨシダ・モリオ)

 韓国探偵小説の父とも言われる金来成が「楕円形の鏡」という日本語小説を探偵小説誌「ぷろふいる」に発表して作家デビューを飾った1935年、同誌九月号から江戸川乱歩が「鬼の言葉」という評論連載を開始。その第一回で讃嘆を記したのがイーデン・フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』だった。のみならず、乱歩は翌三六年から『赤毛のレドメイン家』の翻案である「緑衣の鬼」を「講談倶楽部」誌に連載していく。一方、朝鮮半島に帰った金来成は1940年、『世界傑作探偵小説全集』の第一巻に『赤毛のレドメイン家』の韓国語訳を収め刊行する。井上良夫訳『赤毛のレドメイン一家』からの重訳だと考えられる。
 翻案や重訳。創作中心の文学史では必ずしも十分な検討対象となってこなかったものに注目することで、どんな風景が見えてくるのか。ここでは原作との差異を愛でることよりも、一国文学史の枠組を超えた新たな文学史構築の可能性について考えてみたい。(工学院大学)

〈普通〉に越境すること――崔実『ジニのパズル』韓国語訳をめぐって――

康 潤伊(カン・ユニ)

 本発表では崔実『ジニのパズル』(講談社、2016)の韓国語訳を扱う。大会趣旨文にある通り、越境という様態あるいは言葉がもはや珍しくなくなって久しい。ジニが越境者であることは疑い得ないが、韓国語版(チョン・スユン訳、ウネンナム社、2018)においては、従来の越境、つまり地政学的な境界線を越えることそのものが価値化されているのではなく、越境自体が珍しくなくなったからこそ可能となったまた別の〈越境〉が行われている。では、韓国語版においてジニは何を越え、越えた先で何を成しているのだろうか。本発表では、韓国における「嫌北」あるいは「反共」イデオロギーと朝鮮学校という視点を交えながら、この問いについて考察したい。(創価大学)