2021(令和3)年度 昭和文学会 第68回研究集会のお知らせ

*本研究集会は、新型コロナウィルス感染症拡大の影響により、オンライン開催となりました。詳細につきましては、1か月前を目処に学会ホームページにて告知いたします。

日時 5月15日(土)13時〜17時5分

 

特集 現代日本文学における〈動物〉という主題

開会の辞

大橋 毅彦(代表幹事)

【研究発表・シンポジウム】

埴谷雄高『死霊』における「革命」と人工妊娠中絶

石川 義正

ポストヒューマニズムのなかの動物と文学

村上 克尚

構造的他者、動物、ミメーシス

小泉 義之

司会  石井 要・峰尾 俊彦

閉会の辞

大橋 毅彦(代表幹事)

 

【企画趣旨】
 本企画は、日本文学研究者に加えて文芸批評家、フランス思想研究者を招き、現代日本文学における〈動物〉という主題を多角的に問い直すものである。本企画は異分野の論者を交えて討議することで、個別の作品分析を越えて、現代文学における〈動物〉という主題をより広い文脈の中に定位することを目指していく。
近年、日本文学研究において、〈動物〉をめぐる主題系は定着しつつある。前世紀から盛んな政治哲学における動物の権利論を手始めに、英米圏のアニマルスタディーズ・エコクリティシズムの潮流、現代思想における動物論などの〈動物〉論が隆盛し、人新世やポストヒューマニティーズのような〈人間以後〉を見据えた思想が影響力を増している中で、日本文学研究における〈動物〉論も今後さらに深められる必要があるのは間違いないだろう。
 実際、文学研究における〈動物〉論は作品分析のための最新のモードという位置づけを越えた射程を示しつつある。例えば、現代文学作品における〈動物〉に着目する近年の論においては、女性作家の作品が前景化され、作中においても動物と女性のあいだに強い紐帯を見出している。ここでは〈動物〉という主題が、ジェンダーの問題系にも開かれている様相が見られる。さらに女性作家の前景化は、〈動物〉という主題の導入が、男性作家の系列で語られる歴史と差異化された、女性作家を中心とした戦後-現代文学の「歴史」を浮かび上がらせていると言えるのではないだろうか。
 また、〈動物〉という主題は批評・研究の現場で文学作品を語ることにおいて「文学理論」「思想」の援用を活性化させていることも見逃せない。「理論」の時代の終わりが語られて久しいなかで、〈動物〉という主題の導入は、かつて隆盛を誇ったフランス現代思想などの理論の言葉が現在において再び文学研究の言葉と連携していく契機を与えているように思われる。ゆえに、〈動物〉という主題が日本文学研究において定着しつつあるいま、フランス現代思想の言葉と再び対峙することは急務ではないだろうか。
 このように動物とジェンダー、動物と理論、動物とケア、動物と環境など、様々な現代的課題と結び付けられる〈動物〉という主題は、個別の作品分析を越えて、他分野の議論を導入することによって多角的に問い直されることを要求している。本企画は、〈動物〉論を日本近代文学研究の最新のモードとして位置づけることを越えて、現代における文学および文学を語る営みを根底的に問い直す契機とすることを目指していきたい。

 

【発表者略歴(発表順)】
石川 義正(いしかわ・よしまさ)
文芸批評。著書『錯乱の日本文学──建築/小説をめざして』(航思社、2016年)、『政治的動物』(河出書房新社、2020年)。論考「時間の感染」(『古井由吉 文学の奇蹟』河出書房新社、2020年)、「なんであれかまわない光」(「ユリイカ」2020年10月)、「隈研吾のパラドクス」(「建築ジャーナル」2021年1月号)。慶應義塾大学文学部。

村上 克尚(むらかみ・かつなお)
東京大学大学院総合文化研究科准教授。専門は戦後文学。著書に『動物の声、他者の声――日本戦後文学の倫理』(新曜社、2017年)。

小泉 義之(こいずみ・よしゆき)
立命館大学特任教授。専門は近世哲学、現代フランス哲学。著書に『生殖の哲学』(河出書房新社、2003年)、『あたかも壊れた世界』(青土社、2019年)。論考に「天気の大人」(『現代思想』2020年11月号)、「疫病下のフーコー」(共編『フーコー研究』岩波書店、2021年)。東京大学大学院人文科学研究科博士課程哲学専攻退学。

【発表要旨】
埴谷雄高『死霊』における「革命」と人工妊娠中絶

石川 義正(文芸批評)

 埴谷雄高が一九世紀ドイツの動物学者エルンスト・ヘッケルの「生物発生原則」(個体発生は系統発生を繰り返す:反復説)に第二次世界大戦以前の早い時期から親しんでいたことは短編「意識」などから知ることができる。非ダーウィン的な進化論者であるヘッケルの学説自体は二〇世紀なかばまでに科学的な説得力を失っていたが、そこに底流する「生命」をめぐる観念は今もなお政治や文化に大きな影響を与え続けている。その痕跡はレーニンの『唯物論と経験批判論』からファシズム、エコロジー、宮沢賢治、『エヴァンゲリオン』にいたるまで枚挙にいとまがない。埴谷にとってもその影響は根底的であり、『死霊』の「七章《最後の審判》」(一九八四年)における「全宇宙史」の暗黙の参照先になっている。この発表では『死霊』における「革命」の理念がヘッケル的な「生命」の秩序(自然科学的/史的唯物論)の「総顚覆」であると同時に、「五章《夢魔の世界》」に描かれた粛清裁判と人工妊娠中絶がいずれもたんなる「悪」ではなく、革命に内在する真正の「革命」の回帰として表明されていることを示す。

 

ポストヒューマニズムのなかの動物と文学

村上 克尚(東京大学)

 「ポストヒューマニズム」は、テクノロジーによる人間の能力の拡張というかつての意味を超え、人間とは自律した主体なのだ、という人間中心主義的な思い込みを揺るがそうとする、多分野での試みを束ねる戦略的概念として用いられ始めている。動物をめぐる問いもまた、このポストヒューマニズムの重要な一部門をなしている。声を奪われた動物への注目は、主権による排除の暴力を乗り越えるとともに、非対称な地平を前提にした新たな倫理を構想することに繋がると期待される。しかし、他方で、ロージ・ブライドッティが指摘するように、動物の権利論に基づいた人間中心主義批判は、動物たちの特殊性を消去し、「他者」として一様化するとともに、「人間」という概念の拡張に終わってしまう危険を孕んでもいる。本発表では、このジレンマのなかで、木村友祐、古川真人、高山羽根子といった日本の現代作家がどのように動物を描いているのかを検討する。そのうえで、これからの文学研究がどのように動物の問題に応答すべきかについて考えてみたい。

 

構造的他者、動物、ミメーシス

小泉 義之(立命館大学)

 ときに、文学と理論は、共鳴することがある。しかし、大概の場合、それはさほど喜ばしいものではない。もちろん、作家とて、同時代の理論からの影響を免れることはない。しかし、理論通りの語り、理論の概念の形象化を作品として差し出されると、一読者としてはすこし耐えがたい。そして、一研究者として耐えがたいのは、その類の作品は理論を援用して読めてしまえるということである。もちろん、私にしても、(優れた)作品は複数の読みを容れるとするクリシェでもって、おのれの読解を内心で弁明するのが常であるが、そんな慣行が批評を貧しくしてきたと言えよう。要するに、私は、文学と理論の共鳴など、端から信じてはいない。では、〈動物〉では、どうなるのか。
 〈動物〉について理論らしい理論はない。ポストヒューマン・ポストヒューマニティーズと銘打たれた書き物は、「きれぎれのお伽話」「画家のがらくた部屋」(ルカーチ『小説の理論』)でしかない。〈動物〉論で引き合いに出される、ドゥルーズ(+ガタリ)もデリダも、その域を超えてはいない。発表では、そのような理論の「退行」を概括的に辿って、文学への期待を語ってみたい。