2020(令和2)年度 昭和文学会 秋季大会

【重要なお知らせ】2020年度秋季大会は大阪樟蔭女子大学での開催が予定されておりましたが、新型コロナウィルス感染症拡大の影響により、オンライン開催となりました。
 

特集 いま〈古典〉を考える--戦後文学文化における〈古典〉とは何か--
 
日時 2020年11月7日(土) 13時~17時30分
 
【登壇者紹介】
・衣笠正晃氏(法政大学)
・西野厚志氏(京都精華大学)
・竹田志保氏(学習院大学ほか)
・勝亦志織氏(中京大学)
 
※大会の詳細やオンライン学会への参加方法は昭和文学会HP(http://swbg.org/wp/)で改めてお知らせいたします。今後、やむを得ない事情より一部内容の変更、当日の急な変更等も生じる可能性があります。その際も速やかに当会HP上でお知らせいたします。
 
 
【式次第】
 
開会の辞(会場校挨拶)

田原 広史(大阪樟蔭女子大学 国文学科長)

 
田辺聖子文学館のご案内

黒田 大河(大阪樟蔭女子大学 教授)

 
 
(研究発表・シンポジウム)
大衆化のなかの国文学/国文学界
――戦前・戦後の連続性から考える――      

衣笠 正晃

 
分身と変身
――谷崎潤一郎訳「源氏物語」と小説「夢の浮橋」――     

西野 厚志

 
少女文化のなかの古典

竹田 志保

 
 田辺聖子『新源氏物語』における光源氏の恋と七夕
――宝塚歌劇化を回路にして――      

勝亦 志織

 

司会 大石紗都子・佐藤淳一

 
 
 閉会の辞                      

大橋毅彦(代表幹事)

 
 
 
※ 田辺聖子文学館につきましては、公式HPもございます。
  http://bungakukan.osaka-shoin.ac.jp
 
 
【企画趣旨】
本企画では、主として戦後の作品を対象に、古典文学研究者と近代文学研究者とのシンポジウムを設け、あらためて作家・創作における〈古典〉の意義を探っていく。それとともに、一般読者層の関心・アカデミズム双方ともに看過しがたい領域において、創作と研究とが互いの成果を共有しうる契機を見出していきたい。 
「近代文学」研究は、その成り立ちにおいて戦前よりの「国文学」研究の方法論を継承しつつ「古典文学」との分担が図られてきた。
その歴史はもちろん単純な二項対立を前提とするものではなく、相互浸透が目指されつつも差異化も意識されてきたものといえるだろう。たとえば戦前に議論があった国文学研究の様々な方法論、文献実証・歴史社会学派・文藝学・解釈学などの成果が改めて多角的に見直される動きが見受けられる。〈古典〉をどう引き受けるかという関心の所在は、「解釈と鑑賞」「国文学」誌上などにおける、古典文学・近代文学・作家・研究者の枠組みを超えたやりとりにも見出されるだろう。
 
さらにその現象は、学術研究にとどまるものではなく、大衆文化・メディアミックス・ポピュラリティーとも重なる領域を形成してきたはずだ。
一例を挙げるならば、田辺聖子による上代から近世まで幅広い古典文学紹介の数々は、漫画文化への影響などもあり、今なお新たな可能性を秘めているだろう。
「源氏物語」に関してみても、円地文子・谷崎潤一郎・橋本治・舟橋聖一など、それぞれに研究領域との距離の置き方、相対関係に個性がみられる。山田孝雄を通じて現代語訳に取り組んだ谷崎潤一郎や、上田萬年を父親にもつ円地文子のように、創作と研究が密接に結びつく例があるのに対し、橋本治のように自らのアカデミズム的な知識を創作の基盤とした例もみられる。先の田辺聖子による『新源氏物語』などは、原文尊重と対極的な流れに位置付けられ、古典文学のイメージを語りの難解さから解放したものとしても名高い。
その他、石川淳『新釈古事記』・瀬戸内晴美『とはずがたり』など、著名な作家による古典文学受容は戦後も枚挙に暇がない。
 
戦後の古典文学受容は、年代的な新しさ、未分化で再評価の余地が大きい領域ゆえに、学術研究においては剔抉しきれていない可能性もいまだあるのではないか。専門の細分化・文学研究における閉塞感を危惧する声も多い中、依然、エンタテインメントなどの領域においては文学への興味が活況を呈する現在、その様相を改めて見直す意義があるといえよう。
 
【発表者略歴(発表順)】
 
衣笠正晃(きぬがさ・まさあき
法政大学国際文化学部教授。専門は比較文学・日本文学研究史。主な論文に「中世和歌研究と文学史記述――風巻景次郎を中心として」(『中世文学』第五十二号、二〇〇七年六月)、「国文学者・久松潜一の出発点をめぐって」(『言語と文化』第五号、二〇〇八年一月)など。訳書にハルオ・シラネ『芭蕉の風景 文化の記憶』(角川書店、二〇〇一年)、トマス・カスリス『インティマシーあるいはインテグリティー――哲学と文化的差異』(法政大学出版局、二〇一六年)など。
東京大学教養学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。コロンビア大学大学院東アジア言語文化研究科にてM.Phil.を取得。
 
西野 厚志(にしの・あつし)
現職は、京都精華大学人文学部専任講師。早稲田大学教育学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(学術)。早稲田大学教育・総合科学学術院助手、日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て、2015年度から現職。研究テーマは谷崎潤一郎を中心とする日本文学、近代における古典作品の受容、文学と検閲制度や映像メディアとの相関関係について。主要な論文に「燃え上がる〈手紙=文学(レターズ)〉――原資料・自筆原稿と言論統制からみる谷崎潤一郎「A夫人の手紙」――」(『日本近代文学』第101集、二〇一九・一一)などがある。また、「細雪」収録の『谷崎潤一郎全集』第19・20巻の解題を担当した。
 
竹田 志保(たけだ・しほ)
学習院大学大学院人文科学研究科日本語日本文学科単位取得退学。博士(日本語日本文学)。現在、学習院大学他非常勤講師。研究テーマは、吉屋信子を中心とした女性文学、通俗小説、モダニズム文学など。
主要論文:「困難な〈友情〉─吉屋信子「女の友情」論」(『昭和文学研究』65集, 2012年9月)、「吉屋信子「地の果まで」論─〈大正教養主義〉との関係から」(『日本文学』62巻11号, 2013年11月)、『吉屋信子研究』(2018年、翰林書房)
 
勝亦志織(かつまた・しおり)
中京大学文学部准教授。専門は日本古代中世の王朝文学。著書に『物語の〈皇女〉――もうひとつの王朝物語史――』(笠間書院、2010年)。
本発表に関わる論文として、「〈見えない〉ヒロイン今上帝女一の宮の可視化が物語るもの――宝塚歌劇 源氏物語千年紀頌『夢の浮橋』をめぐって―― 」(「物語研究 」十一号、二〇一一年三月)、「視覚化される『源氏物語』 ――宝塚グランドロマン『新源氏物語』――田辺聖子作『新源氏物語』より――をめぐって」(「平安朝文学研究」復刊第二四号、二〇一六年三月)、「宝塚歌劇と日本古典文学享受 宝塚グランドロマン新源氏物語――田辺聖子作「新源氏物語」より――(二〇一五年上演)をめぐって」(「古代文学研究 第二次」二八号、二〇一九年十月)がある。
 
 
【発表要旨】
大衆化のなかの国文学/国文学界――戦前・戦後の連続性から考える
衣笠 正晃(法政大学)

 戦後における〈古典〉の受容ないし消費のあり方を考えるにあたっては、戦後消費文化のプロトタイプとしての戦間期(大正デモクラシー期)文化状況への振り返りが欠かせない。中等・高等教育の普及とメディアの多様な展開がもたらした受容者層の拡大は、国文学アカデミアによる積極的な国文学振興策へとつながり、そのなかで近代文学研究がディシプリンとして立ち上げられるとともに古典文学の普及・大衆化が図られ、国文学は新たな〈教養〉としての役割を担うこととなった。同時に国文学者たちは研究方法論や研究主体のあり方について自覚的となり、議論や相互批判を経て学派の形成へと至る。
本発表ではこうした大正期に始まる国文学研究の動向や論点が、戦時下の総動員体制を挟んで戦後へと連続し、新たな状況のなかで展開する流れを、近代文学研究の先駆者としての吉田精一を主軸とする国文学者たちをとりあげて検討・考察したい。
 
 分身(みがわり)変身(かわりみ)――谷崎潤一郎訳「源氏物語」と小説「夢の浮橋」――
西野 厚志(京都精華大学)

 よく知られるように、谷崎潤一郎は生涯で三度、「源氏物語」の現代語訳に手を染めている。しかし、『潤一郎訳源氏物語』(一九三九~四一)、『潤一郎新訳源氏物語』(一九五一~五四)、『潤一郎新々訳源氏物語』(一九六四~六五)と繰り返された訳業のうち、戦時下に刊行された最初の訳からは光源氏と藤壷の演じる禁断の恋が削除されるなど(当該箇所は戦後あらためて「藤壺」として訳出、つづく『新訳』は完訳となる)、その〈源氏物語体験〉(秦恒平『谷崎潤一郎〈源氏物語〉体験』)の内実は一様ではなかった。発表では、これまで非公開であった『潤一郎訳源氏物語』の自筆原稿の調査の成果にふれながら、「源氏物語」の最終帖と同名の小説「夢の浮橋」(『中央公論』一九五九・一〇)について、作品の舞台(後の潺湲亭)のフィールド・ワークや物語論を参照して、同作と「源氏物語」に通じる〈分身(みがわり)〉と〈変身(かわりみ)〉の主題を論じたい。
 
 
少女文化のなかの古典
竹田 志保(学習院大学ほか)

古典文学の学習において、若年者向け現代語訳や、古典を題材とした少女漫画などが、しばしば副読本的に活用されている。これらは難解で興味関心を持ちにくい古典文学について、わかりやすく、面白く、共感をもって理解することを助けるものとして奨励されているといえよう。たとえば田辺聖子の現代語訳、あるいは大和和紀の『あさきゆめみし』に代表される少女漫画、また氷室冴子の『ざ・ちぇんじ』や『なんて素敵にジャパネスク』などのような現代的ヒロインによって大胆にアレンジされた少女小説は、多くの読者を古典の世界に導き入れることに成功したといえるだろう。ただしそのような現代的な共感を根拠にして古典を理解することには常に危うさがある。多くの古典のなかから何が選び取られ、どこがフレームアップされていくのかは、つねにその読まれる時代の特定の要請のなかで成立している。にもかかわらず、古典モチーフの諸作に「いつの世にも変わらない」「普遍的」な何かを見いだすことは、むしろ現代の価値観を再強化することであるだろう。こうした問題について、いくつかの少女向け読みものを参照しつつ考えてみたい。
 
 
田辺聖子『新源氏物語』における光源氏の恋と七夕――宝塚歌劇化を回路にして――
勝亦 志織(中京大学)

 『源氏物語』は作家による現代語訳が数多くあり、一方で様々な形で視覚化がなされている作品である。それは現在にいたるまで続いており、多様な古典享受の様相を示しているといえよう。現代の享受者にとって解釈が難しい内容をどのように伝えるのか、様々な工夫がそこにはある。
本発表では、田辺聖子『新源氏物語』を取り上げ、光源氏が藤壺の宮と紫の上の二人の女性と語る際に「七夕」またはそれに類する表現を取ることに着目したい。どちらも『源氏物語』には該当する本文がない場面であるものの、光源氏の心情が効果的に表現されている。特に藤壺の宮との関わりについては、宝塚歌劇化においても一場面が作られ二人の関係を視覚的に理解できるようになっている。この宝塚歌劇化を回路として、「七夕」というモチーフの使われ方について検討したい。