第80集特集 元号と文学

 2019年5月は、「平成」という「元号」で区切られた時代の終焉として、近代以降では初めての、天皇の死を伴わない改元が行われる予定である。「元号」を日常生活で強く意識する機会は減っているが、退位が話題になって以降、「平成最後の~」といった表現が増えるなど、「元号」による時代区分は一層強調されている印象を受ける。  
 現在、いくつかの文芸誌で「平成文学」の図式を再考する座談会や企画が組まれ、そこでは戦争・テロ・宗教・ネット社会・経済的地図の大変容・グローバル性・越境性など多様なテーマが、ライトノベル、ネット小説、ケータイ小説といった新たなジャンルとも連関して「平成文学」の特徴として議論されている。だが、同時にここには、「元号」によって時代を語ることへの無自覚さが露呈しているとも言えよう。そもそも、文学史、文学研究もまた、「元号」とは決して無関係ではなかった。本誌が『昭和文学研究』と「元号」を冠した雑誌名であるのを見ても分かるように、日本の近代文学は「元号」による時代区分の規定を様々な形で蒙ってきたのではないだろうか。「明治文学」「大正文学」「昭和文学」、そして「平成文学」なる呼称の流通はその証左である。
 また、文学において「元号」を問うことは天皇(制)を問うことにもつながる。これまでの日本の近代文学が「元号」による時代区分をある種無批判的に受け入れて来たとすれば、それはまさしく天皇(制)を何らかの形で文学の制度として受け入れたことになるだろう。
 むろん、こうした背景があったとしても、少なくとも日本近現代文学研究は、このような天皇(制)や国民国家に対する批判的な議論を積み重ねて来なかったわけではない。だからこそ、今ここにある「乖離」について、今一度考察する必要があるのではないか。「譲位」または「生前退位」という手段により、「昭和」よりもはるかに短く「平成」が終わることで、「元号」という見掛け上の力は今後弱まるかもしれない。しかし、「元号」のもつ政治性は、なおも温存されるだろう。こうした状況にあって、「元号」のもつ歴史性と問題を批判的に炙り出すような論考を募りたい。
                                                                                   2019年9月15日締切