2017(平成29)年度 昭和文学会 第60回研究集会

2017(平成29)年度 昭和文学会 第60回研究集会
 
日時 5月13日(土)午後1時30分より
 
会場 実践女子大学 渋谷キャンパス 創立120周年記念館 403教室
(〒150-8538 東京都渋谷区東1-1-49)

大会概要、アクセスなどはこちらを参照ください。

 
特集 〈現物〉を触る、読む―― デジタル時代における〈資料〉の価値 ――
 

【研究発表】
小林秀雄『実朝』論——文献の位相——

多田 蔵人

 
複数のアーカイヴから立ち上がる〝芥川龍之介〟 ——学生時代と最晩年を事例に——
小澤 純

 
物としての〈資料〉が語ること  ——大西巨人・横溝正史旧蔵資料の調査から——
山口 直孝

 

【全体討論】

司会 和泉 司・掛野 剛史

 
 
※ 終了後、創立120周年記念館九階カフェテリアにて懇親会を予定しております。予約は不要、当日受付にてお申し込み下さい。
 
 
【企画趣旨】
   資料のデジタル化とインターネットのブロードバンド化によって、文献資料の探索・閲覧の利便性は著しく向上した。入手や閲覧が困難であった資料がデジタル資料、あるいはインターネット配信などによって利用できるようになっている。国会図書館のデジタルコレクションや論文検索・閲覧サイトのCiNiiなどはその代表的なものであろうし、出版社においても、新聞各社のweb上でのバックナンバー閲覧・検索機能や、丸善雄松堂の「オンライン版三田文学」など、従来膨大な物理的量で書庫を圧迫していた資料体をPCがあればどこでも閲覧できるようにしたことの意義は非常に大きい。
   今やデジタル資料の存在なしでの研究は不可能であり、デジタル時代以前に戻ることはもはやできない。だからこそデジタルの限界、問題点に自覚的になる必要があるだろう。
   デジタル化は資料の物理量をほぼゼロに出来る点で画期的だが、資料体の独自性が犠牲になる場合もある。近代以降の文学資料に限っても、一つのテクストの単行本に、複数のバージョンが存在するが、デジタル資料はそれらすべてをカバーしているとはいえない。
  また、国会図書館所蔵の書籍がデジタル化され広く公開される状況が生まれているが(しかしここには様々な制約があり、公開状況が十分とは言えないという問題もある)、国会図書館所蔵本は、同時代の流布本と必ずしも一致しない。このような国会図書館所蔵本がデジタル化され公開されることによって、流布本の存在やその研究可能性が失われる危険もはらんでいる。このような問題を超えるためにも、資料の物理的原本を探索・収集し内容を比較していく作業が不可欠である。
   しかしこれらの問題点は研究者の間で必ずしも広く共有されていないようにも思える。またそうした問題点は研究としてどう接続し、どのような文脈に置かれるのか。そもそもデジタルではカバーできない研究、〈現物〉を見なくては成立しない研究にはどのような可能性があるだろうか。
   デジタル資料の存在が当然となってから研究を始めた世代も現れるようになっている今こそ、その問題点を踏まえて、〈現物〉の意義を考える機会をもちたい。
 
 

【発表要旨】
小林秀雄『実朝』論——文献の位相——

多田 蔵人(ただ・くらひと、鹿児島大学)

  資料の価値を考えるための事例として、小林秀雄『実朝』を読み、昭和10年代における「書物」の役割を探る。大正末からの出版行為の活発化は、書物への視線の変容を招来した。書誌学、文献学、愛書趣味等の書物論がそれぞれ隆盛を見るなか、たとえば古典籍について、書物と本文の存在様態が改めて関心を集めてゆくのである。
  ところどころに文献学や書誌学への否定的な言葉を書き込んでいる小林秀雄『無常といふ事』は、これらの書物論を媒介としつつ、独自の書物の眺め方を示そうとした試みである。とりわけ『実朝』は、当時文献学上の論争テーマであった『金槐和歌集』を論じている点、また小林における書物論と美術批評との関係を示す点でも、重要な章であると言える。
  当時の書物論を読むことは、たとえば古典回帰の流れにおける論者の歴史論、あるいは国家論の基層を抽出することに繋がる。まずは『金槐和歌集』をめぐる〈現物〉を徹底的に集めるところから、この課題に接近してみたいと思う。  
 
 
複数のアーカイヴから立ち上がる〝芥川龍之介〟 ——学生時代と最晩年を事例に——
小澤 純(おざわ・じゅん、慶應義塾志木高等学校)

   芥川龍之介は、その〝遺物〟の収蔵と公開に恵まれ続けてきた作家の一人である。2017年においても、日本近代文学館の館報(3月15日発行)によれば「一塊の土」原稿が収められ、また山梨県立文学館で1月から始まった「新収蔵品展」では菅虎雄宛と真木珧宛書簡が披露された。岩波の新版全集(1995~98)は、芥川家からの寄贈等を礎にした前者と古書店主・岩森亀一のコレクション等を基にした後者、また芥川の甥・葛巻義敏の関係資料も収める藤沢市文書館等、各施設に分散した肉筆資料を参照して編纂、2008年の二次刊行時に補訂されている。ただ、例えば山梨の『芥川龍之介資料集』図版と比較すれば、編集方針から外れたものや省略等があり、更新される目録や紀要等を参考に、各施設へと足を運んで初めて詳細が明らかになる〝現物〟も存在する。近年では、種々のデジタル・コンテンツが充実し、『芥川龍之介ハンドブック』には資料の所蔵先情報が纏められ、個人蔵を含む翻刻作業と分析が進みつつある。本発表では、複数のアーカイヴを調査することで、主に「羅生門」を中心とした学生時代と「河童」「歯車」を軸とした最晩年の諸テクストを読み直す端緒を開きたい。           
      
 
物としての〈資料〉が語ること  ——大西巨人・横溝正史旧蔵資料の調査から——
山口 直孝(やまぐち・ただよし、二松學舍大学)

   縁あって大西巨人・横溝正史の旧蔵資料の整理・調査に携わっている。手探りで作業を進めてきた体験から、物としての〈資料〉が持つ意義を提示してみたい。
  旧蔵資料の核の一つに蔵書がある。巨人・正史とも取材をしない作家であり、書物から題材や着想を得ていたが、読書の範囲は判然としない。記憶力のよい二人は、ノートやメモを作らず、本に付箋をしたり、線を引いたりすることも稀である。目を通したものと未読のものとの見極めに迷わされるが、書籍の状態が手がかりとなる場合がある。本の感触は、二次元の画像からはこぼれ落ちてしまう。
  〈資料〉の範囲が定まれば、デジタル画像での保存が可能であるが、その前に、どこまでを〈資料〉として扱うか、判断がなされなければならない。作家の生活と結びついていた膨大な点数の〈資料〉の選別には、繊細な感覚が求められる。作家が所有し、活動していた執筆の空間に対する意識を手放さないことが大切な要件となろう。 
 
 

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2017年度 昭和文学会の集会・企画は以下の予定です。
 
6月10日(土)春季大会(日本大学文理学部)
【特集】冷戦期の余白を埋める——ベトナム戦争を視座として