2019(令和元)年度 昭和文学会 第65回研究集会

日時 12月21日(土)14時より

会場 昭和女子大学 7号館 7階7L02・6階6S02教室
(〒154-8533 東京都世田谷区太子堂1-7-57)

大会概要、アクセスなどはこちらをご参照ください。

【研究発表】
第1会場(7号館7階7L02教室)
巌谷小波『日本お伽噺』論

増井 真琴

久生十蘭「湖畔」論—― 〈論理〉と〈決定不能性〉をめぐって ——

脇坂 健介

小説を語る小説という方法 ―― 中島敦「光と風と夢」論 ――

石井 要

福永武彦「草の花」における転移の問題

桑原 旅人

 

司会 片野 智子・吉野 泰平

 

第2会場(7号館6階6S02教室)

西脇順三郎『近代の寓話』の詩論

久村 亮介

 

戦後批評における「想像力派」

―― 同人雑誌『批評』を中心に――

杉山 雅梨

 

痛み苦しむ神の表象―― 遠藤周作による戦後のイエス――

増田 斎

 

 

司会 平井 裕香・渡部 裕太

 

※終了後、1号館ソフィア(学生食堂)にて、懇親会を予定しております。

 

発表要旨  
【第一会場】

巌谷小波『日本お伽噺』論

増井 真琴(日本学術振興会特別研究員(PD))

巌谷小波は、明治・大正・昭和の三代にわたって活躍した日本近代児童文学の第一人者であるが、彼の全業績の内、代表作と言えるお伽噺集は、大きく三つある。東京・博文館から出版された、『日本昔噺』全二四編、『日本お伽噺』全二四編、『世界お伽噺』全一〇〇編である。
これらの「三大叢書」は、いずれも、日本と世界の民話・神話・史伝等に取材した本格的な再話集であり、明治の子どもたちに圧倒的な人気をもって迎えられた。だが、再刊や再録の機会に恵まれなかった事情も関係しているのだろう、同叢書の研究は必ずしも進展しているとは言えない状況にある。
そこで本発表では、小波の主要な代表作でありながら、これまでほとんど研究の対象化されてこなかった『日本お伽噺』叢書の再評価を試みたい。具体的には、各編の物語に貫流する類型・規範や、文体・挿絵の特徴を明らかにする。また、小波お伽(明治期児童文学)と昭和期児童文学の連続性と断絶性についても考察を加え、同叢書の包括的読み直しを図る。

 

久生十蘭「湖畔」論

──〈論理〉と〈決定不能性〉をめぐって ──

脇坂 健介 (学習院大学大学院)

久生十蘭の短編小説「湖畔」は、これまで主人公の「俺」と妻である陶の「愛の物語」という評価と、「幻想小説的側面」に焦点を当てる評価が主軸であった。
本発表ではそうした知見を踏まえながら、まず手記を書く現在の「俺」が過去の自分を描く際に用いる「虚飾」という〈論理〉が手記の中でどのような意味を持つのかを分析する。その上で、妻・陶との関係に注目し、これまでの「愛の物語」という評価が「俺」にとって都合の良いばかりでなく、陶の存在を軽視するものであったことを明らかにする。その一方で湖から引き揚げられた死体の存在によって、〈決定不能〉になっている陶の生死に注目し、陶と「俺」との関係が単純な「愛の物語」に回収しきれない不穏なものを孕んでいる可能性を見出したい。以上の経緯を考察することで、これまで論点とされてきた「愛の物語」と陶の生死の〈決定不能性〉が演出する「幻想小説的側面」を問い直し、「湖畔」の可能性について明らかにしたい。

 

小説を語る小説という方法 ──中島敦「光と風と夢」論──

石井 要(渋谷教育学園幕張中学高等学校)

中島敦は、登場人物に小説論を語らせる作家だった。小説という媒体(メディア)において創作原理が語られることには、どのような狙いがあったのか。本発表では、「光と風と夢」(『文學界』一九四二・五)を取り上げ、小説について語る小説という試みの意義を明らかにする。「光と風と夢」では、主人公スティヴンスンが小説の筋を重視するロマンス作家として活動しており、谷崎と芥川の間で交わされた小説の「筋」論争への言及もある。しかし、創作の過程で筋は容易に組み上がらず解体されてしまう。そして、「光と風と夢」自体は断片的な挿話の羅列によって筋を志向しないあり方が採られている。同作は、小説論を作品そのものの読み方にフィードバックさせ、「筋」を重視する理論的立場の限界と実作が別様の創作原理を生み出していくダイナミズムを描いている。中島敦は、小説の「筋」をめぐる議論を踏まえつつ、理論と実作を相互に作用させる場として小説を捉え、その動態において小説論の更新を図っていたのである。
 

福永武彦「草の花」における転移の問題

桑原 旅人(東京大学大学院)

ジャック・ラカンは『転移』(一九六〇-六一)の講義において、プラトンの『饗宴』に詳細な分析をくわえているのだが、そこで彼はソクラテスとアルキビアデスの関係を範例としつつ、「愛される者」から「愛する者」への変容に転移の意義を見出している。つまり、ラカンにおいて転移とは、根源的な自己変容の問題として語られるものなのである。本発表ではこの議論を基盤に、福永武彦「草の花」を論じていく。従来の研究における議論のパターンとして、「愛される者」としての藤木忍の理想的な美少年として造形された人物像を褒め称える一方で、「愛する者」としての汐見茂思のプラトン主義的な傾向とその強引さを批判するというものがある。だが、二人の関係の不成立を汐見の挫折としてのみ還元するのはあまりにも一方的な解釈なのではないか。なぜなら、「愛する者」へと変容することができなかった藤木にも過失は存在しうるからである。いずれにせよ、我々は「草の花」を転移という問題設定から再解釈していく。

 


第二会場】

西脇順三郎『近代の寓話』の詩論

久村 亮介(東京大学大学院)

西脇順三郎の第三詩集『近代の寓話』(一九五三)は、その後に書かれる多くの詩作品に通底するスタイルが確立された詩集であり、これまで多様な角度から研究がなされてきた。しかし、いずれの論も相互の参照や批判的な検討に乏しく、各論点が分立したままとなっている。そこで、まず西脇順三郎がこの時期に書いていた散文から、詩論や主題をその変遷も押さえながら整理をし、当時における西脇の詩作の「方法」を明らかにする。次にこの「方法」を用いながら、以下ふたつの作業を行う。ひとつは、これまで分立していた先行研究の論点を、ひとつの立場から整理できるような可能性を探ること。もうひとつは、その「方法」から彼自身の詩を読み解き、読解の共通了解となりうる部分を画定すること。これらを踏まえて、当時の西脇が詩作行為において何を目指していたのかを明らかにすべく、「方法」からのみでは記述しきれないような、詩という形式のもつ自律性についても検討したい。

 

 

戦後批評における「想像力派」──同人雑誌『批評』を中心に──

杉山 雅梨華(名古屋大学大学院)

戦後批評の第二世代を担う若手批評家の登場は、一九五四年に創刊された同人雑誌『現代評論』をもってその嚆矢とする。『現代評論』が二号で廃刊した後に、服部達、遠藤周作、村松剛はサルトルの「想像力」概念を支柱として、文学の脱政治化を図る審美主義的批評を打出して再出発した(『文学界』一九五五・四~九)。現実世界と芸術の作品世界を一元化した自然主義的な方法に対して、「メタフィジック」な視点を導入する方向性は、村松と佐伯彰一、篠田一士を中心に創刊された同人雑誌『批評』(一九五八・一一~一九七〇・四)に引き継がれ、『批評』同人と中村光夫との論争、江藤淳の『作家は行動する―文体について』(一九五九)、吉本隆明による「想像力派」批判など議論を呼んだ。同人雑誌の時代とともにあった想像力論の勢いは、一九六〇年代に入ると失われてしまう。本発表では、戦後批評が直面した理論的な転換点として「想像力」をめぐる議論の意義を明らかにする。
 

 

痛み苦しむ神の表象──遠藤周作による戦後のイエス──

増田 斎(総合研究大学院大学)

神の痛みの問題は戦後直後、北森嘉蔵『神の痛みの神学』によって提出され、国内外のキリスト教界へ影響を与えた。だが、一九六〇年代頃、教会の戦争責任告白などを背景に、キリスト教界を社会や政治と接続させる「社会派」が台頭し、北森神学は「個人的次元に制限」させる視点として批判されるようになる。彼らは、歴史上のイエスを実存的に解釈し、社会変革者の可能性を読み込む傾向にあった。
このようなキリスト教界の思潮を踏まえ、本発表では文学の領域から神の痛みを描いた遠藤周作を取り上げる。『沈黙』(一九六六年)では、踏絵を踏む棄教者の「痛み」を感知する神を描き、評伝『イエスの生涯』(初出一九六八年)等では「無力なイエス」を構築し、北森神学と同様に社会派から批判されている。社会変革者としてのイエス像と相対して、どのように政治的に無力なイエス像が描かれているのか考察し、個人と社会を切り分けるような「痛み」の問題について言及したい。